「実存的政治」

17.08.2023

哲学者アレクサンドル・ドゥーギンの発表 
哲学集会「大ロシアの再定義」の第四回会合にて 
哲学者アレクサンドル・ドゥーギン博士は、「ロシアの大改名」の哲学評議会の第 4 回会合 での演説において、20 世紀の哲学と政治学の歴史で、サルトルやカミュのような左派実存 主義者たちの、ハイデガーへの回りくどい反応に対して、実存主義が政治構造や政治体系へ 批判している事を根拠として実存主義と、その関連するもの全てが政治と対立していると指 摘しました。
この理解の中では政治が、何か疎外されたものとして描かれています。これは、実存的な根 源から一度切り離されたものであり、既に決められた「制度」「儀式」「規則」などが実存そ のものを圧迫する事によって、人間が実存か政治のどちらに従うのかを選択する必要に迫ら れるのです。左翼的またはリベラル的な視点からの実存主義者からの批判は、実存と政治と の対立が基になり、国家や階層などの"伝統的政治的機関"への批判として表面化するのです。
私達は全ての国家と政治によって自らの存在が疎外されています。この純粋な異化と言う事 実に基づき、社会の改革が提案されるべきです。一般的に実存主義は政治に対抗し政治体系 を解体する為の議論を支持する為に、自由主義やマルクス主義の哲学に仕えていると言えま す。自由主義やマルクス主義が持つこの共通の特徴は存在の全体を開示し、社会を改革する 為の物であると言えます。
自由主義派は、政治を『人々』(ハイデガーの用語を借りると"das man")の領域と見做して おり、その領域から解放される為には、政治から解放される必要があると主張しています。 この様な実存主義のアプローチは第四政治倫理の文脈で再評価されるべきであり、特に第 四政治理論では、自由主義の「個人」マルクス主義の「階級」ファシズムの「国家」や「民 族」にとって代わる新たな政治主体を生み出し"dasein"として表現されています。実のとこ ろ第四政治理論そのものが実存的な政治理論ですが、左派とリベラル派が結束して政治を 攻撃するこの状況では、私達は意図的に逆境に立ち向かったと言えます。 これは第四政治理論が自身の政治教義全体を"Dasein"上に構築するからなのです。
このセミナーの題名を「実存政治学」としたのは極めて適切であったと言えます。 私はこの第四政治理論の代表者であり、そして、この重要で興味深いテーマを他の誰が解決 できると言うのでしょうか。
私達はテーマの全てを正しく選択し、正しい方向性を築いて行くのです。
さて、"実存政治"を語る際には、一時的に『政治的プラトン主義』と呼ぶべきものを脇に置 く必要があります。
アポロンの理念は、私たちにとって特に役立つものではありません。ニーチェやハイデガー 的な議論に深入りすることなく、その話題はとりあえず横に置いて、実存主義について話す 際、私たちが参照するのはハイデガーの理論、純粋な内面性の問題、ブレンターノやフッサ ールの考え、そして現象学の領域で、アポロンの考え方には触れないということを強調した いと思います。
私たちは、ハイデガーの思想に焦点を当て、その中に暗黙的に含まれている内容を明示的に 取り出すことに努力する事にします。ハイデガーの思考には、暗黙のうちに政治哲学が含ま れているのですが、明確にはそこに存在しません。実際ハイデガーは「黒のノート」の中で、 政治の哲学は独自の学問として存在すべきではなく、哲学そのものが政治の哲学であると言 及しているのです。そして、政治とは、哲学なのです。
彼は時折他の著作の中で、政治について時々、直接的または間接的に触れています。これら は非常に興味深い点であるが、ハイデガーの中に明確な政治哲学は存在しないと、言えます。 しかし、私たちの目的は、彼からこの哲学を抽出することです。これが実存的な政策や第四 政治理論の哲学的根拠となります。
この方向に進むために、私は民族社会学とハイデガーの考え方の二つの視点を組み合わせ ることを提案します。これは、私の教科書「民族社会学」やモスクワ大学の保守的研究セン ターで行われた講義やセミナーで詳しく説明されています。私たちは、民族社会学のテーマ に深く取り組んできました。私は、その内容を簡潔に説明したいと思います。
民族社会学的トポロジーは、社会内での様々な政治的、あるいは単に社会的な組織の構造を、 一定の連鎖の中で研究しています。
"エスノス"は、個人としてのアイデンティティが存在しない、民族的な実体を示しています。 その中での「私」は、集団全体を表すものとなっており、その概念は唯一無二です。"ドゥ・ カモ"という言葉は、レーンガルトによって取り上げられた特定の海洋部族の中での存在で す。その意味は「私」でもあり、「私たち」でもあり、「あなた」でもあり、「族長」でもあ り、「神秘的な存在」や「儀式」としても取られます。これは、人々がエスノス、すなわち民 族としての集団の一部として存在することを示すものです。このような古代の社会において は、社会的な階層は存在せず、平等、友情、そして団結がその主要な特質として挙げられま す。
次に、"ラオス"という概念が挙げられます。この概念は時系列的な流れよりも、むしろ論理 的な流れの中でエスノスの後を継ぐものです。"ラオス"は、時間や歴史、物的な蓄積に縁遠 い"エスノス"すなわち民族を指します。この文化の中では、余計な生産物は全ての儀式や宴 で消費され、物的な蓄積や断絶、あるいは一直線の発展といった概念は存在しないとされて います。たとえば、豊作となった場合、その収穫の余剰は祭りや宴で消費されるべきとされ ています。それにより、食べ物や飲み物が残されることなく、社会の均衡が保たれるよう努 められています。
国家の誕生と共にエリートが台頭し、貴族階級と大衆が形成されます。大抵の場合国家は 、 2 つ以上の民族から構築され 、2 つの言語が存在するようになります。その理由は、異なる 精神構造を持ち、しばしば異なる言語を話し、確かに異なる社会的背景や文化を持つ人々が 登場することで、その民族が貴族として昇進し、新たな民族、つまり支配する民族として変 容するからです。従属させられた民族は、基本的には平和的で落ち着いた多数派を形成して おり、彼らは新しい国家の中で民族としての位置を保持します。
この新しい社会構造は、複雑さを増して進化し、社会的な階層やカーストの形成とともに、 国家やラオス(民衆)としてのエスノスが歴史の舞台に登場することになります。国家の形 成は、通常、政治、宗教、文明、あるいはこれら全てを取り入れることで実現されます。さ らにラオスの持つ潜在的な力を最大限に発揮させるための最良の形態として、「帝国」がそ の例として挙げられるのです。
エスノスと民衆、つまりアーカイックな社会と伝統的な社会との間の違いは、その背後にあ る人類学や社会に対する考え方の違いに端を発します。一方、全てが平等であるとの理念が あり、もう一方では階層制が存在します。集団の意識としての「私たち」と、大衆や下層階 級の集団意識が貴族階級の個別の意識と対立する複雑な構造が形成されるのです。
さらに 3 つのバージョンについて考える際、私たちは伝統的な社会の枠組みを超え、通常 の規範を越えることになります。というのも、エスノスとラオスは、正常な社会における 2 つの基本的な形態でありますから。そして、次に私たちが目にするのは「病的な社会」とも 称される「国家」です。この国家とは、支配的なエスノス、つまり貴族の持つ個人的な特徴 が、大衆に向けて映し出される現象を意味します。この国家は、個人的なアイデンティティ を必要とします。この個人的アイデンティティとは、貴族と農民、または支配者と被支配者 の間のある種の混合物、ハイブリッドのような存在であります。そして、このような状態は 病理的な現象を引き起こす可能性があると言えます。
正常で健全な社会は、ラオス、すなわち帝国にてその終焉を迎えます。エスノスはその中に 常に存在しており、時として帝国はエスノスに分裂した後、再びラオスへと統合されること があります。これらのプロセスは、L. グミレフによって「民族発生」として研究されていま す。しかし、国家こそが最終的な終焉を意味します。全体的な構造が病的に変わり始めると、 異常な存在が出現するのです。国家は、臆病な戦士や怠惰な農民、理解に苦しむ哲学者など、 一般的な社会の中で考えられないような病的な存在を生み出します。一人の人は、哲学者と して生きるか、土地を耕すか、あるいは戦場に立つかのいずれかとなります。しかし、戦う ことが恐ろしく、土を掘るのが面倒で、哲学に取り組むのも放棄したい場合、そういった 人々は、ブルジョワとして国家を形成する第三の階級となります。国家とは、一種の病的な 存在であり、帝国の崩壊や社会的階層の上で新しい時代に現れるものです。国家は貴族だけ でなく、農民や一般市民、さらにはエスノスまでもを破壊します。そして、言語の多様性を 滅ぼし、国家言語やイディオムを押し付けることとなります。私のフランス人の友人はボル ドー近くの村で育ち、村の言葉で話し、フランス語を理解していなかったと言います。しか し、フランス語やその他の国語は、ブルジョワの文化の中で、多様な民族言語を消滅させる 力を持っています。このような変化の中で、集団的アイデンティティは失われ、人々には個 人的なアイデンティティが強制されるのです。これにより、共同体の精神、ドゥ・カモは侵 食され、人々は個人主義の中で生きることを余儀なくされます。
国家とは病気であり、ナショナリズムは攻撃的な強迫観念の形態を持っています。ナショナ リストであることは、愚かで卑劣な豚になることと同じであり、それは帝国を破壊し、農民 の伝統や宗教を破壊し、ブルジョア国家とともに世俗化された商業社会を生み出すことを意 味しています。国家は更に、財産や資質がなく、有機的な絆や健全なアイデンティティも欠 如したブルジョワの子供としての退化した市民を自ら生み出しています。
国家がその使命を完了すると、個人たちは国家に対して「これで十分」と伝え、その結果と してグローバリズムの時代が到来します。国家によって作り出された現代人は、自らのルー ツである村や貴族、教会、修道院から切り離され、その存在意義が不明確になっています。 このような人々は、国家の時代を経て、最終的にはグローバルな社会へと統合されていきま す。これは現代の自由主義の姿であり、グローバリズムはその次の段階を示しています。
私たちが考察しているのは、有機的なモデルや民族、伝統から離れた完全に人工的な現代人 の存在です。そのルーツであるラオスは、中世の闇とみなされ、古代の民族は笑いものにさ れています。農村の日常や祭り、収穫後の穀物の神への感謝の意味を込めた慣習は、時代遅 れとされ、理性的で「合理的」な新しい世代に取って代わられています。
彼が地球全体を支配し、伝統的な社会や古い社会の名残を破壊すると、人々や国々の消滅と 共に、新しい「ポスト社会」が姿を現します。人々は自分自身がもはや人間でないと感じ、 「性別を変えてみよう」「カエルと合体しよう」と考えます。そして、コンピュータの技術を 取り入れ、「電子の目で遠くを見る」「電子の足で高く跳ぶ」「電子の手でより多くを掴む」 という思考に至ります。このようにして、国家というものから始まり、全ての伝統的な価値 観の崩壊を迎え、最終的には「ポスト社会」が誕生するのです。国家は伝統を崩壊させる始 まりであり、それは非常に卑劣で不潔、そして醜いものとされています。これは、民族社会 学の考え方における大まかな構造です。
また、もう一つの視点として「実存的なトポロジー」が存在します。私の著作「社会の実存 的理論」では、ハイデガーの「黒いノート」を基盤として、この概念をさらに詳細に探求し ています。ハイデガーは、彼の主要なカテゴリーである「Dasein」は、個人でも集団でもな いと主張しています。この点は非常に重要です。Dasein は誰のものでもありません。
全ての人々を集めても Dasein を形成することはできませんし、全ての人々を離れて一人と なっても、Dasein の存在は失われることはありません。それは個人にも、大衆にも、そし て集団にも等しく存在するものです。ある人が他の全ての人たちとは無関係に、完全に独自 の Dasein を持つことができる一方、全人類が存在する意義を見失い、最小限の Dasein し か持たないことも考えられます。しかし、Dasein は一人の者が単独で所有することはでき ず、存在する場としてのここに常に存在しています。
ハイデガーによれば、ダーゼインは人間の存在の基盤を示しており、この考え方に基づくと、 民族社会学的な観点での「エスノス」という概念とダーゼインを関連づけることができます。 これは、意識の基本的な現象学的構造、つまり意図的行為を構造化するアルゴリズムを示す ものです。そして、このダーゼインという存在の背後にあるのがエスノスなのです。言語は ハイデガーによればダーゼインの実存であり、言葉は個別に存在するものではなく、常に集 団的なものとして捉えられます。この発言の能力、そして言葉を交換し、考えを明確にする 能力は、エスノスが生きている言語の世界を構築するものです。そして、エスノス自体が言 語として存在しているのです。ロシア人として、私たちは民族という言葉を言語で表現しま すが、これは偶然ではありません。言語はエスノスの中で最も重要なものであり、常に集団 的な存在として、ダーゼインの主要な実存的要素として考えられます。そして、民族性が国 の中でダーゼインと一致する、またはそれに関連する存在として理解されると、さらに新し い次元が加わるのです。
ハイデガーは『黒いノート』の中で、"アイニゲ"という概念について触れており、彼によれ ば、この「アイニゲ」はダーゼインの哲学的で存在論的な集中を示す存在です。彼らはエス ノスの中で考える存在として、同時にエスノスであり、そしてそれを超えた何かでもあると されています。
ハイデッガーが伝えたいのは、国家内のエリートや上層階級、特に最高カーストの代表者た ちが、ダーゼインの特定の向きや、言い換えればダーゼインのある次元を体現しているとい うことです。この次元において、ダーゼインは、自らに内在するロゴスを展開し始めます。 貴族たちは孤独であり、単一性を持ちつつ、既に集団的ではなくなり、個別の存在として振 る舞います。これらの孤独な存在は、ダーゼインの中に秘められた潜在的な内容を特定の方 程式やパターンとして明らかにしていきます。
人々も話しますが、多くの場合、彼らが語るのは無意味なこと、意味を持つかのような無意 味なこと、極めて重要だと思わせる無意味なことです。彼らは世界の物体を配置し直し、そ れらに名前を付け、その中で生活しています。その行為は驚異的で根源的な美しい作業であ るにもかかわらず、根本的にはナンセンスとも言えます。そして、その中で Einige (「一部の 人々」を指す)は、この多方向性に散らばる言語の海、生きた言語のマグマから、詩的作品 や哲学的理論を構築することを選択しています。この Einige とは、ハイデガー自身やニー チェ、ヘーゲルといった人々のことを指し、彼らは戦士であり、アポロンやディオニュソス の神官のような存在です。これらの選ばれた少数の人々、特別な存在は、Selbst Dasein’a (自 己の存在)の中で自らを体現する役目を持っています。
つまり、歴史の舞台に登場する民族や集団としてのラオスの最も完全なモデルは、帝国の形 態をとり、その最高の指導者自身が Selbst Dasein’a であると言えます。この考え方は、実際 にはハイデガーの基本的な問題と興味深い方法で一致しています。ハイデガーは、私たちが どのようにして基本的な存在論や存在と存在論を構築するのか、と問います。彼によれば、 現代のヨーロッパ、特に新しい時代において私たちが直面している Dasein(存在)は、そ の内部のロゴス(理性や言葉)とはうまく合致していないと語ります。この Dasein を基盤 として築かれたロゴスや上層構造、存在論、形而上学は、Dasein の本質や特性を考慮せず、 速やかで異質で幻影のようなものとなっており、このような遠ざかった存在論は「Sein und  Zeit」の開始時点で破壊の対象となり、代わりに根源的な存在論を築くべきだとハイデガー は主張します。これは、エリートが何らかの外部的なロゴスの持ち主であるのではなく、 Dasein そのものから昇華し、高まるべきであるということを意味します。ハイデガーが明 確に定義していない政治的な課題ですが、実存的な政治学を築く、もしくは第 4 の政治理論 を構築するという課題は、その内部構造や手順において、ハイデガーが自ら立てた目標、つ まり、根源的存在論を構築するという課題と、深い共通点があります。
私は何度も強調してきましたし、これからも強調しますが、基本的存在論は、古典的存在論 の破壊、すなわちその排除と新しい存在論の構築を前提としています。ハイデガーはこのよ うに考えていました。そして、私たちが再構築した二つのトポロジーにおける存在論とは、 エスノス、すなわち民族であると言えます。エスノスは古代のものであり、それは意識を表 すものです。しかし、それはロゴス、すなわち論理や言葉を表すものではありません。それ は意向性の行為の構造を示しています。
Dasein は、その本質的な性質において古代のものでありますが、エリートや上流階級の代 表者たちは、彼らが代表する民族のロゴスを表現するという使命を持っています。彼らの民 族的背景は関係なく、彼ら、すなわち哲学者や上流階級の代表者は、他の人々とは少し違っ た存在です。L.N. グミレフは、彼らを「情熱家」として生物学的に捉えようとしました。一 般的な人が一つの畑を耕すのに全てのエネルギーを使う中、情熱家は同じ時間で 100 の畑 を耕す力を持っています。これは非常に大変であり、真摯に努力する者にとっては痛みを伴 うことです。しかし、通常の人が耕すことができるのは 1 つの畑だけで、情熱家は 2 つや 3 つの畑を耕すのではなく、100 の畑を耕します。そのような情熱家は破壊的な力を持ってお り、彼が触れるものは全て破壊され、焼け野原となります。だから彼は戦士としての道を選 び、その力を戦場で発揮します。平和な時代には、彼のような人物は恐ろしく、不要であり その存在は醜いとされ、"セルブスト・ダーゼイン"として存在する事となり、それに近づく 者は、ある種の垂直性を持っていると言えます。そして、この文脈によって実存的な帝国に ついての議論が可能となります。
実存的帝国の創造は、政治的な次元での基本的な存在論の課題への正確な答えとなります。 国家、市民社会、ポストヒューマンに関する議論を一旦考慮から外して、全体を見ると、私 たちは「エスノス」と「ラオス」、すなわち、原初的な社会と伝統的な社会という二つのカ テゴリーに到達します。この観点から、伝統的な社会は存在的な側面から存在論的な要素を 取り上げるものであり、それと同時に、存在的な側面との繋がりを損なわないように保ちま す。これこそが、神聖な帝国の真髄です。
帝国は、単なる政治的な組織に留まらず、哲学的な概念としての深い意味を持ちます。帝国 とは、本質的に神聖な存在であり、その中核に立つ皇帝も、特別な神聖さを備えています。 皇帝は、一般的な政治的指導者とは異なる位置を占めており、一方で多くの政治的指導者た ちがこの神聖な帝国へと進む道を歩んでいるのです。彼らはその途上で躊躇することもある かもしれませんが、絶えず”セルブスト・ダーゼイン”を目指し、物の中心と、世界の王とし てのメルキゼデクや聖杯の王、そして存在論の核心である"ダーゼイン"へ向かって進行を続 けて行くのです。
実存的な政策や帝国の創造に関する議論は、伝統的な帝国的社会の中で特に重要です。そこ でのエリートの役割は、ダーゼインの深い存在論的背景から見える真の意味を持つロゴス を理解し、それを体現できる人々によって担われるべきです。そのため、この問題には細心 の注意を払って取り組む必要があります。
もし、上位階級が行うべき叙任式のプロセスが中断されたり、模倣されたり、忘れられたり、 または放棄された場合、ハイデガーの考えでは、誤った存在論が生まれます。支配的なエリ ート層は、もはやダーゼインを理解することができず、彼ら独自の断絶した存在論を築き上 げてしまいます。その存在論は真実でないとハイデガーは指摘し、ここでハイデガーがプラ トン主義に対して行った批判を思い出すことができます。私は、この批判がどの程度正当で あるかについての詳しい議論を今は避けますが、ハイデガーがこの批判を通して伝えたか ったのは、現実の第二の段階の建設が現象学とのつながりを失っている、ということです。
さらに、ディオニュソスの実存的帝国について考える第三の部分に移ります。社会、すなわ ち「ラオス」が国家や宗教、文明としての構造に変化することは、完全に超越的、つまりア ポロン的であるわけではないと、実存的政治は強調します。帝国の基盤となっているものは、 単純に超越的なものではなく、超越と内在が混在したもの、つまり超越的な内在性や内在的 な超越性です。これは、ダーゼインから独立したロゴスではなく、ダーゼインの中心に位置 するロゴスです。この考えは「セルブスト・ダーゼイン」として理解され、皇帝の存在は単 なる神の存在ではなく、神と人間が融合したような存在、つまり神々しい人間の存在として 捉えられます。セルブスト・ダーゼインは、超越的な中で最も内在的なもの、また、内在的 な中で最も超越的なものとして、深く内包されるべきものです。
国民が民族として、また大衆として真実の存在として生きる時、彼らに皇帝という存在が与 えられます。皇帝はただ単に仕えられるべき存在ではありません。国民が正しい生き方を追 求し始めると、皇帝は彼らの前に姿を現します。この皇帝は、他に誰であるべきかというと、 哲学者でなければならないのです。単なる愚者が国民の上に立ってしまった場合、それはも はや王国とも、帝国とも呼べるものではありません。支配者としての性質や資質は、内在的 行為の構造から、内在的でありながら超越的な基本的存在論的意義を見出す能力という検 証を受けなければなりません。これは、国民の現象学的世界を形成し、形而上学的な抽象へ と昇華するための、内在性の過程に付加される哲学的な上部構造です。従って、アポロンの ような皇帝の像ではなく、実存的な帝国のディオニュソス的な本質について語ることがで きます。この実存的な帝国における皇帝は、ここ、私たちの中に存在しており、単に神格化 されるものではありません。彼は崇高な人間を象徴していますが、神は遠く離れた場所に存 在し、純粋な超越的存在です。この皇帝は、人々の前では神のようでありながら、真の神の 前では人間としての側面を持っています。彼のその位置付けは、実存的帝国のディオニュソ ス的な性質を鮮明に示していると言えるのです。
ソフォクレスの中に登場するプロメテウスの謎に満ちた予言は非常に注目に値するもので す。この予言を通じて、ゼウスの時代が終焉を迎え、新しい王が台頭することが暗示されて おり、その新しい王の正体を知るのはプロメテウスだけであるとされています。ディオニュ ソスの物語を再訪すると、彼がタイタンに引き裂かれる前、何をしていたのかというと、ゼ ウスの雷を持つ玉座で遊ぶ姿が見受けられます。オルフィクスの教えによれば、そしてこの 教えは多くのギリシャ人にも受け入れられていましたが、ディオニュソスこそが次代の王 として君臨する存在であり、エレウシニアの神秘的な儀式もこの考えを基盤にして行われて いたと言われています。
この未来の王、即ち時間そのものの王でありながら永遠の王、はゼウスではなく、ゼウスの 超越的なアポロンの力を超え、内在的かつ超越的な力を持つディオニュソスであるとされ ます。雷の玉座で遊ぶディオニュソスの姿は、常に存在の中心に留まりつつ、その存在自体 からは離れない「存在そのもの」としての彼の姿を象徴しており、これは「遊ぶ子供」とい う概念と深く関連しています。
また、 ヘラクレイトス の 言 葉 、「 Α ι ω ν παις εστι παιζων  πεσσευων παιδος η Βασιληιη」を参照すると、永遠を象徴するこの 子供、すなわち永遠の子は、彼の手中に王国があると解釈されます。物事の中心に位置する この王の子、つまり子供王は、真の実在としての皇帝の姿を示しており、この比喩は私たち にとって非常に意味深いものとなっています。
実存的な帝国とは、仮面の世界、顔と人格の領域です。この帝国は非物質的な性質を持って いるため、もし実存的な国家の存在を認めるならば、その国家は物質的な性質を持つことは できません。実存的な国家が持つ物質的な課題は一つも存在せず、同時に、純粋な形での宗 教的な課題も持ち合わせていません。国家が解決しようとするすべての問題や、その全ての 機能、インスタンスは、それが示すものや、明らかにするもの、またその下に隠すものより も、更に重要な仮面として表れます。これは、仮面が支配する帝国、劇場のような帝国であ り、すべてのものが高さと深さの間の希薄なヴェールに覆われています。
この帝国が前に出してくるのは、非物質的で霊的でない問題です。帝国が解決しようとする すべての課題は、夢見がちであり、演劇的です。帝国内の各要素の背後には、その隠された 内部的な深い次元が潜んでおり、それが帝国を神聖な存在へと昇華させています。そして、 この神聖な意味は、直ちに何らかの行政的または経済的な形に変わります。ディオニュソス の祭りのように、帝国の大部分は皮肉的です。これは、物質的な世界ではなく、顔や仮面の 世界であり、その中ですべてが交錯しているからと言えます。
エルンスト・カントロヴィッチの『王の第二の身体』という素晴らしい本に注目していただ きたいと思います。私は、この本に関して、私の新しい著作『創世記と帝国』で詳しく触れ ています。王の第二の身体は、帝国の本質を示すものでもあります。帝国とは、第一の身体 と第二の身体の間、すなわち現実と象徴の境界を持つものとして存在しています。この境界 は、シェイクスピアの『リチャード 2 世』においても、登場人物たちの関係性や内面を通じ て根本的に描かれています。リチャード 2 世が鏡を見つめ、「私は一体誰なのか?」と問い かけるシーンは特に印象的です。彼は「私は王であり、偉大な力を持つ者なのか、それとも ただの人間なのか?」と自問します。このシーンは、鏡を通して映し出される帝国の象徴で あり、その帝国が持つ独特の双極性を示しています。
興味深いことに、カントロヴィッチは中世のスコラ学において、王の第二の身体に関する議 論だけでなく、ある特定のロバに関する議論も存在していたと指摘しています。このロバと は、キリストが乗りながらエルサレムに入城した際のものを指しています。では、その後そ のロバは返されたのでしょうか?福音書の物語では、キリストのエルサレム入城後、そのロ バは持ち主に返されたことが強調されています。しかし、そのロバが神の存在、すなわちキ リスト自身を運んでいたとすれば、そのロバも特別な存在であり、第二の身体を持っている のではないでしょうか。そして、その第二の身体は返されなかったのかもしれません。
帝国の存在は、常に二つの側面、つまり物質的な側面と精神的な側面から成り立っています。 実存的な政治の中で、すべての事象や存在が二つの側面から成ることは不可欠です。帝国は、 物質だけでなく、精神も含む複雑な存在として捉えられます。教会は精神的な存在として認 識される一方、帝国はその両方を持ち合わせているのです。したがって、真の帝国とは、常 に二つの要素から構築されるべきであると言えます。
私が読みたかったのは、ヘーゲルが『精神の現象学』を締めくくる部分です。『精神の現象 学』の終わりにある箇所は、ヘーゲルが精霊の領域について綴っている、実に見事な部分と なっています。この精霊の領域(Geister Reich)は、私たちが話し合っている実存的な帝国 そのものを指しています。
その目標、つまり絶対的な知識とは、精神が自らを精神として認識することです。しかし、 その認識のためには、精神が自らの中に存在する精霊たちの記憶をたどる旅を経なければ なりません。彼らの存在は、偶然の形としての歴史としての側面と、概念として捉えられる 知識の側面、両方を持っています。そして、これらの側面を組み合わせたものが、絶対精神 の回想やゴルゴダという、その玉座の真実性や真理性を形成しています。
そしてヘーゲルは、この『精神の現象学』の終わりを、シラーの美しい言葉で締めくくりま す。この表現は、プロティノスが語る「一つ」という概念に酷似しているのです。
第 5 部に移ります。今度は、国家の問題に触れていきます。私たちは以前、実存的帝国につ いて議論しました。これは、完全な実存的状態における大衆と支配者の関係の実存的形態を 反映した帝国のことを指しています。しかし、国家はこの実存的政治の可能性を崩壊させる ものであり、国家と実存的政治は共存できないと言えます。第三階級のブルジョア国家が台 頭すると、実存的政治は終焉を迎えることになります。というのも、この社会の両方のアイ デンティティが疎外され、真正に存在する両極が失われてしまうからです。人々は土地から 引き離され、都市へと移住し、子供たちや儀式、家族、村の生活、さらには死に対する考え 方までもが失われていくのです。この現象は非常に重要な意味を持っています。
なぜなら、農民は死というものを直接的には知らないからです。祖先の意志や存在が農民を 通じて受け継がれているのです。農民の生き様の中心には結婚式というイベントがあります。 これは、結婚式を通じて祖先が再び生まれ変わり、祖先自身がその結婚式を主導し、新しい 花婿や花嫁を通じて自らを継続させるからです。このような共同体と祖先の関係は、実存的 な共同体や民族の特異な存在の形を生み出しています。儀式や伝統が失われることで、私た ちの中での死に対する認識も変わってしまうのです。中世や他の伝統的な社会において、社 会の深い部分に存在していた農民の生き様や存在のサイクルは、次第に失われてしまってい るのです。
しかし、英雄たち自身も疎外される現象が見受けられます。なぜなら、その人格や個性、そ してブルジョワの性質は、死と何らかの特別な関係を築くという英雄的な個性とは異なるか らです。農民は不死であり、自らの祖先や自己の内面的側面として死との関わりを深く持つ 一方で、戦士や祭司は死という存在に対して真正面から向き合い、その中に深く入り込みま す。彼らは死の不可逆性や非対称性を強く受け入れ、それを明確に意識する道を選びます。
この道は極めて困難ですが、彼らにとって死は純粋な否定の象徴となっています。その結果、 彼らは死を超越した次元を理解し、感じるようになります。一方で、ブルジョワはこう主張 します。「私たちには先祖も超越も必要ない。農民や貴族に背を向け、死との関係を避け、 その存在を目にしない場所へ追いやるのだ。」 ブルジョワジーと国家は、農民の不死性を制限し、主要な悲劇に捧げられている半神との死 との英雄的な接触を同時に排除します。この結果、近代は真に存在する可能性から疎外され た変異体を生み出しています。国家社会、国家、ナショナリズムは、すでに反実存的な政策 であり、それは人を真の存在の可能性から意図的に排除しています。その結果、私たちは国 民国家とともにダス・マンの領域に進むこととなり、そこではすべてが非真実的な方法で存 在し、動き続けています。どこに行こうと、その状況から逃れることは不可能で、社会の上 層部にはただお金を数えるブルジョワや商人たちしかおらず、下層部には、より良い食事や 物質的利益を求める慰安主義者や社会の敗者がいます。実存的な覚醒を探求する人は、この ような政治や国家組織、このような個性や個人のアイデンティティの中には、真に存在する 機会がないため、居場所を見つけることはできません。
国家とナショナリズムが真の存在の可能性を完全に封鎖した後、国家そのものが超越され、 グローバリズムや人権、そして純粋なダス・マンの担い手としての個人が登場します。彼は 地球を掌握し、この障害を乗り越える動きは長くは続かないでしょう。なぜなら、彼は自身 の中身を完全に空にしてしまい、人工知能やキメラ、LGBT、フェミニストといった、国家 から始まるダーザインの逸脱の最終的な産物に場を譲らなければならなくなるからです。
実存政治の観点から見れば、人工知能、シンギュラリティ、現代のポストモダニスト、トラ ンスヒューマニスト、トランスジェンダー、LGBT、そして 17 世紀のブルジョワ国家との 間に大きな違いは存在しません。これらすべては、同じ障壁のこの側に位置しており、非真 実性の枠内で動いています。そして、何らかの政治的構造からの解放を追求する度に、その 非真実性は増大し続けています。
人工知能は、この非真実性の範疇、すなわち「ダス・マン」の影響を広げつつあります。結 果として、人工知能は「ダス・マン」の直接的な表れとなるのです。これは、「ダス・マン」 が常に完全な疎外感を象徴してきたからであり、人工知能はその役割を引き継いでいます。
人が自身の存在意義、Dasein とのつながりを完全に失うとき、その結果として人工知能が 登場します。人から Dasein の本質を取り除くと、人工知能が形成されると言えます。
ブルジョア革命の時代から、人々は Dasein にアクセスすることが妨げられてきました。こ のため、近代や西欧の価値観、モダニズムの誤解が積み重なる中で、すべてを打破する保守 的な革命こそが、実存政治の中での革命的な転換を引き起こす唯一の方法と言えます。それ 以外のものは、本質的に非真実性を帯びており、その非真実性は日々増強されています。
実存的帝国の君主がセルブスト・ダーゼインであるのであれば、人工知能はセルブスト・ダ ス・マンの具現と言えます。この状態は、ダーゼインさえ消滅してしまうような非真実の極 致を示しています。人間と機械との間の違いは、実際にはほんの一点に過ぎません。機械も また、感じたり、機械的な方法で愛を表現したり、思考したりすることはできるのですが、 存在そのものを体現することはできません。機械は、ダーゼインを持たない人間と言えるで しょう。
現代の人間は、多くがダーゼインの存在を知らず、それについて深く考えることもありませ ん。そのため、現代人から機械へ、あるいは自由主義と個人主義から人工知能やポストヒュ ーマニズムへの変遷は、多くの人々にとっては気づきにくいものとなるでしょう。ここでの 主題は、単なる技術的なアップグレードやブランドの変更にとどまるものではありません。
それは、深い形而上学的な変化を意味します。そしてその変化の中で、私たちが失うもの、 それは「死」です。なぜなら、実存というもの、特にダーゼインの核となる実存は、死との 関係性に基づいているからです。
機械や技術が「これで、死はもう存在しない」と告げたとしても、それは真の存在を理解す るものとは言えません。かつて、死は私たちの生活の中心にあり、その重要性や存在を日常 的に感じていました。死は、私たちがこの世に存在する意味を常に思い起こさせてくれるも のでした。しかし、時間と共に、この考えは後退し、死の存在は日常から取り除かれ、忘れ られるようになってしまいました。人工知能は、この忘れ去られた死を再び私たちに取り戻 すことができるのでしょうか。それとも、私たちの存在そのものを、ただのデータや機械的 なものに変えてしまうのでしょうか。
このような実存的政治の展開を見て、私たちはどのような結論に至るのでしょうか?
新しい時代の枠組みの中では、実存的政治は明らかに不可能であり、それは最も卑劣で、受 け入れがたいナショナリズムや、その直接的な結果としてのリベラリズム、そして当然のこ とながらポストヒューマニズムにおいても同じです。これらすべての思想は、ハイデガーを 経由してサルトルやカミュから借用した考え方を持ち込み、それは結果的に、近代自体が構 築した前の制度や機関を破壊するという現実的な目的に利用されています。彼らの真の目的 は、国民国家からよりグローバルなシステムへの移行であり、そのために彼らは国民国家を 疎外の手段として批判し非難しています。
私たちはここで、実際の疎外の原因を考える際に、その主要な要因は国民国家ではないと気 づきます。真の疎外をもたらす主要な要因は、極端に個人主義的なリベラルなイデオロギー です。これは、国民国家よりもさらに疎外感を増幅させ、実存的な意味合いを帯びていませ ん。興味深いことに、リベラリズムの全体主義的な傾向は、時が経つにつれてますます顕著 になってきています。30~40 年前のリベラリズムは、今日のように過激な全体主義的性質 を持っていなかったのです。確かに、多くのものが管理され、指示されていましたが、少な くとも自由や選択肢のようなものが何らかの形で存在していました。「私は左派になりたい、 私は右派になりたい」という選択も、少なくとも許容されていました。しかし、現在のリベ ラリズムは、特に右派や左派の意見を即座に抹殺しようとしています。
そして、この疎外感の真の原因は、ナショナリズムそのものではなく、近代の流れが人工知 能へと向かっていることにあります。人工知能は、この流れの頂点を示すものとして位置づ けられています。今、ユヴァル・ハラリはシンギュラリティの賛美者として、またシュワブ の助手として名を馳せています。一方、フクヤマは WSU のナチス、親衛隊を指導している と言われています。ベルナール=アンリ・レヴィも同様の立場にあり、リベラル派やポスト ヒューマニストによる哲学的な考え方が、現在、最前線での戦争の中で直接的な影響を与え ています。彼らは今、私たちを攻撃する武器を手に取り、アンドレイ(コロボフ=ラティン ツェフ)や私たちの仲間たち、私たちの心がある場所、すなわちウクライナで直接的な影響 を及ぼしています。
ロシア連邦という国民国家が挑戦しているのは、ウクライナの国民国家や、それを後ろ盾と して支える EU や米国の国民国家ではありません。ここで語られているのは、まったく異な る次元のことで、それは根本的な実存的革命に関するものです。これは、長い時間の中で忘 れ去られていた帝国が再び立ち上がり、姿を現してくることに関する話です。私たちが目指 す帝国とは、未来のディオニュソス王の帝国で、これはプロメテウスの秘密であり、とても 危険で不穏な予言に関するものです。この実存的な王、つまり、新しい時代の独特な主体が、 今、私たちの目の前の地平線上で姿を現し始めています。この主体が SMO を始動させるの か、あるいは誰もがそれを始めないのかという疑問が生まれます。
SMO を始めることは、誰にもできなかったのです。なぜなら、SMO は何からも論理的に導 かれるものではなく、近代の枠組みの中での SMO には説明が存在しないからです。SMO を説明できるのは、実存的帝国論の観点からだけで、この点が非常に重要な結論となります。
今や、私たちの目標は明確で、第四政治理論の目的も、実存的政治の目的も、すべてが明確 となります。それは、近代性を完全に解体することであり、近代性の中には、真に実存的に 存在することができるものは、一つとして存在しないのです。
私たちが真に求めるのは伝統であり、それが古典的であれ帝国的であれ、伝統的であればそ れに越したことはありません。そして現在、ヘーゲルが言及した精神の領域、すなわち精神 の王国全体が賭けられている状況となっています。哲学的な戦争は、この深淵の実存的な敵 との間で進行中であり、そして、非常に多くの人々が私たちのリベラリズムやポストヒュー マニズムの考えに賛同している中で、ナショナリズムの行き詰まりに対する本質的な理解 を提供することが最も微妙であり、かつ重要な課題となっています。
ナショナリズムというのは、私たちが取り組んでいるウクライナのものだけを指すわけで はありません。私たちのナショナリズムも、その同じカテゴリーに分類されるものです。こ れは現代の世界が生み出した、我々の本質、我々の民族、我々の帝国、そして我々の歴史的 な復興に対して敵意を持った、非実質的な道具として機能しています。そのため、この点に おいては私たちは何の妥協もしてはなりません。
現在、実存的帝国の人々、実存的政治の支持者、そしてロシアのロゴスを共有する人々が、 私たちが帝国と伝統的な社会の一員であるという認識を持つことが非常に重要です。西洋的 な近代化、ナショナリズム(これ自体が西洋の産物であることを忘れてはなりません)、さ らにはブルジョア的な近代性への訴求は、すべてヘーゲルが語った実存的帝国、あるいは精 神の王国、深遠なる領域の建設と復興という、我々の高貴な使命に対する背信行為となるか らです。
翻訳:林田一博