「統一目前のイスラム世界」
去る2024年11月11日、リヤドにおいて、パレスチナ問題に関するアラブ・イスラム緊急首脳会議が突然招集されました。
注目すべきは、シリアのバシャール・アル=アサド大統領とトルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領という、宿敵同士の2人が同時に参加した点です。最近まで、このような組み合わせは全く考えられませんでした。さらに、サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン皇太子は基調演説の中で、パレスチナ問題だけでなく、イランや「ヒズボラ」を支援する必要性についても言及しました。この発言は驚くべきものであり、これまでサウジアラビアとイランが敵対関係にあると見られてきたことや、「ヒズボラ」に対する立場がそう簡単に変わらないと考えられてきたことを踏まえると、特に注目に値します。
さらに、ムハンマド・ビン・サルマンはその演説で、パレスチナという国家の存在そのものだけでなく、イスラム教の聖地でありメッカに次ぐ第2の聖地とされるアル=アクサ・モスクの運命が今や危機にさらされていると明言しました。
ここで振り返るべきなのは、2023年10月7日にハマスが実施したイスラエルへの侵攻作戦が「アル=アクサの洪水」と名付けられ、アル=アクサ・モスクに迫る脅威を理由に正当化されていたことですあり、ハマスの指導者たちはこうしたアラブ・イスラム緊急首脳会議がもっと早く、例えばイスラエルによるガザ地上作戦開始直後に開催されることを期待していたのですが、現実にはガザとハマスの指導部(さらには「ヒズボラ」)は壊滅的な状況に追い込まれた後になってようやくこの会議が開催されるに至ったのです。
疑問は、なぜこのタイミングで会議が開催されたのかという点です。
明らかにその背景にはドナルド・トランプが存在しています。トランプは右派シオニズムの強固な支持者であることがよく知られており、彼はネタニヤフ首相を積極的に支援してきました。さらに最初の大統領任期中には、一方的にエルサレムをイスラエルの首都と認めるという決定を下し(国連加盟国の大多数はこれを占領地とみなしています)。トランプはネタニヤフ政権の閣僚であるベツァレル・スモトリッチやイタマル・ベン・グビール、そして彼らの精神的指導者であるラビ・ドブ・リオールといった急進派を支持する意向を明らかにしています。これらの人物はイスラエルが迅速にアル=アクサ・モスクを破壊し、パレスチナ人を排除し、さらにはシリアとダマスカスを占領して「海から海までの大イスラエル」を建設するべきだと公然と主張しています。
トランプの当選後、スモトリッチはさらに大胆になり、「ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人も排除すべきだ」と明言しました。また、アル=アクサ・モスクの爆破についても繰り返し主張しています。一方、ヨルダン川西岸地区のパレスチナ人指導者であり、ハマスの政治的対立者であるマフムード・アッバスは、ガザでの大量虐殺を目の当たりにしながらも穏健な立場を維持しようと努めていましたが、その努力もシオニストたちの最終的な解決策への強硬な意志の前では限界がありました。
トランプはこれらの動きを加速させました。現在イスラエルはパレスチナ人を国内から排除または国外追放し、アル=アクサ・モスクを取り壊し、第三神殿の建設を進めようとしています。シオニストたちの見解では、これがユダヤ教のメシア到来への道を開くとされているのです。
こうした一連の動きが、イスラム世界の指導者たちに内部の対立を乗り越えさせ、リヤドに集結させる結果をもたらしました。エルドアン大統領はイスラエルのボイコットを呼びかけ、ムハンマド・ビン・サルマンはパレスチナの承認と、パレスチナ人、レバノン、イランに対するシオニストの侵略を食い止めるためにイスラム諸国の結束を要求する一方、イスラエルがシリアへの攻撃を続けていることもあり、アサド大統領の出席と彼の反欧米的な演説は非常に象徴的であると言え、長らく遅れていた多極化する世界におけるイスラムの極がようやく明確な形を見せ始めたのです。
イスラム指導者たち自身は、おそらく引き続き欧米との妥協を模索したいと考えていたかもしれませんが、各国のイスラム教徒たちはそのような受動的な姿勢を許容する余裕を失いつつあります。彼らはパレスチナ人の大量虐殺の様子を日々目撃し、自らの宗教的聖地の破壊を恐れているのです。
歴史的観点から見ると、このアラブ・イスラム緊急首脳会議は、イスラム世界の統合における最も重要な節目となる可能性があります。多極化する世界の構築は一時的なスローガンではなく、世界政治の最重要トレンドです。アメリカは、集合体としての西側諸国と共に、グローバルリーダーとしての役割を果たせなくなっています。グローバリズムに反対する保守派のトランプがワシントンで権力を握ろうとしているものの、アメリカが覇権を維持することは短期的にも長期的にも不可能であり、トランプが国内問題を解決してアメリカを再び偉大な国にする可能性は否定できませんが、それはアメリカ内部に限られ他の世界はそれぞれの道を歩み、独自の文明を強化し、完全な多層的主権を回復する方向へ進むことが予測されます。
人類の一つの属州という立場を受け入れた西側諸国は、多極化する世界に適合することが可能です。しかし、世界的な意思決定や普遍的なルールの策定において唯一の最高権威としての地位を持つことは、もはや不可能です。したがって、多極化は不可避であり、他に選択肢はありません。
この状況がイスラム世界にとって何を意味するかといえば、統合の必要性です。それは、イスラム教徒全体のウンマが持つ巨大な潜在力を結集させる新しい超国家的な構造を設立し、独自の極を形成することを目指すべきということです。現在、いかなるイスラム国家も単独でこの文明の極としての役割を果たしたり、統合の核となることはできません。サウジアラビア、トルコ、イラン、インドネシア、核保有国であるパキスタン、エジプトなどはそれぞれが独立しているものの、いずれの国も他の国々を統合する役割を担うことはできません。そのため、イスラム世界を統合するためには、全く新しいプロジェクトが必要です。
どのようなイデオロギーやロールモデルがイスラム統合の基盤となり得るのかという問題は、かなり以前から議論されています。西洋に対する反植民地闘争の初期段階において、イスラム学者たちはさまざまな統合案を提唱していました。ここで考慮されるべきではないのは、西洋的な自由主義、社会主義、ナショナリズムといった政治モデルです。これらは明らかにイスラム統合の教義的基盤として適さないからです。
より深く検討されるべきなのは、純粋なイスラムに基づくプロジェクトです。この場合、イスラム理論家たちは、ウンマに属する諸民族が自らの民族的慣習を放棄し、シャリーア(イスラム法)に基づいて統一するよう提案しました。特に理想とされたのは、初期の二つのカリフ体制、すなわちムハンマドがアラビア半島に築いたアラブ・カリフ制と、661年に第6代アラブ・カリフであり初代ウマイヤ朝カリフとなったマウィヤの下で確立されたダマスカスを中心とするウマイヤ朝カリフ制でした。
第一カリフ体制をロールモデルとして最も明確に表現しているのは、サウジアラビアの公式宗教であるワッハーブ派です。この宗派では、後世に発展したすべてのイスラム法学派や地域的慣習を否定し、さらにはコーランやスンナ(ムハンマドの言行録)の解釈の伝統すら否定しています。その結果、宗教は単純化され、儀式的な実践と経典の文字通りの解釈に還元されました。この形態はもはや宗教というよりも一種のイデオロギーといえます。その単純さゆえに、広く受け入れられやすいのです。
ワッハーブ主義は一時期、イスラム世界における親ソ的傾向に対抗するため、CIAやアメリカ政府によって積極的に支援されていました。この方向性には「アルカイダ(※)」や他のテロ組織が含まれており、異教徒との戦争を呼びかける形でイスラム社会全体に提案されました。この「異教徒」として主にターゲットとなったのは、アメリカの地政学的な敵対者でした。
しかし、1990年代に入ると、西側諸国にとってワッハーブ主義の必要性は低下し、活動が減少したテロリストの宗教的・政治的構造は自らの支援者であった西側諸国に対しても攻撃を開始しました。その結果、西側諸国は「アルカイダ(※)」およびその関連組織と戦う必要に迫られました。この時期を境に、イスラム教徒の間でワッハーブ主義の魅力は急激に低下し、第一カリフ体制への回帰プロジェクトは失敗に終わりました。
一方で、ワッハーブ主義に近い潮流としてサラフィズムがあります。この潮流は、第一カリフ体制ではなく、第二カリフ体制をロールモデルとしています。第一カリフ体制がカリスマ的な宗教指導者を中心に信者の武装共同体として存在したのに対し、第二カリフ体制はより本格的な国家でした。
イスラム世界における反植民地闘争の支持者たちは、ワッハーブ主義よりも早い段階でサラフィズムに注目し、統一された世界イスラム国家の構想を前面に押し出しました。この潮流でも地域的な伝統は鋭く否定されましたが、法学派やスーフィズム(内的イスラム教)に対する姿勢はワッハーブ主義に比べて穏やかでした。例えば、サラフィズムの一派である「ムスリム同胞団(※)」は、エジプトのスーフィー教団と著名なスーフィー学者であるアル=ガザーリーの思想に基づいていました。しかし、その後、この潮流は次第に単純化し、スーフィー的要素を失っていきました。ちなみに、「ハマス」は「ムスリム同胞団(※)」の分派として設立されました。
サラフィズムは、ワッハーブ主義と同様にコーランの単純化された文字通りの解釈と地域的伝統の否定を主張しましたが、統一されたイスラム国家の建設を最優先課題としました。その国家は民族や氏族、出自などによる区別を一切排除することを目指していました。エルドアンやカタールもある時期にサラフィズムに関心を示し、アフガニスタンのタリバンは現在、中央アジア版のサラフィズムの代表的存在です。この潮流は、パキスタンやインドネシア、マレーシアでも広く浸透しています。
イスラム原理主義のテロリスト集団の多くは、まさにサラフィズムの思想に基づいています。
しかし、サラフィー派がそのロールモデルとして掲げたウマイヤ朝カリフの例でさえ、イスラム統合の実現には至りませんでした。その理由として、彼らの急進主義、地域的特徴への厳しい否定、そしてテロリズムの手法が、ウンマ(イスラム共同体)の大多数によって拒絶されたことが挙げられます。サラフィー派は「アラブの春」において主導的な役割を果たそうとしましたが、結果としてチュニジア、リビア、エジプト、イラク、シリアで内戦や混乱を引き起こしただけでした。その結果、サラフィー派は内部で対立を深めただけでなく、イスラム教徒全体の間でその信用を大きく失墜させました。
一時期、エルドアンは第4代(最後の)カリフ制の再構築を政策の中心に据えました。このプロジェクトはサラフィズム的なイスラム主義とトルコのナショナリズムを融合させたものでしたが、トルコに根付いている世俗的なケマリズム(世俗主義)は、このシステムには全く適合しませんでした。それでもなお、エルドアンは特に2016年のクーデター未遂以前に、オスマン帝国のカリフ制をロールモデルとして真剣に検討していました。
オスマン帝国カリフ制の復興というアイデアは、東地中海地域におけるトルコの戦略的利益に合致していました。それは、イラクやシリアの北部領土の支配を正当化するだけでなく、サラフィズムや「ムスリム同胞団(※)」と関係を持つアラブ諸国を味方につける可能性も秘めていました。しかし、この戦略も失敗に終わりました。その主な理由は、アラブ諸国がトルコの支配を受け入れることを拒否し、この地域で再びトルコが主導的な役割を果たすことを望まなかったためです。
また、シーア派のプロジェクトについても触れる必要があります。1979年のイラン・イスラム革命の後、ホメイニ師は新しい時代を宣言しました。それは、イスラム諸国を含む世界の諸民族が、無神論的・唯物論的な西側の覇権に対抗するという時代でした。ホメイニは確信に満ちたシーア派であり、イランにおいて特別なシーア派の統治システム「ウィラヤティ・ファキ」を設立し、他国、特にレバノンのシーア派から支持を得ました。しかし彼は、自分の呼びかけが全てのイスラム教徒に向けられたものであると考え、世俗的な植民地後の無神論的権力に対抗して立ち上がり、イスラム的な統治体制を確立するよう促しました。さらに、ホメイニは非イスラム教徒にも訴え、「大いなる悪魔」である西洋文明に対する反乱を呼びかけました。
ホメイニの思想はイラン国内で成功を収め、シーア派の世界でも広く支持されましたが、スンニ派からは不信感を持たれました。アラブ諸国の目には、これはペルシャ主導のプロジェクトであり、トルコのオスマン主導のプロジェクトと同様のものに映ったのです。
その結果、この統一案も受け入れられることはありませんでした。
汎イスラム統合の思想を簡単に振り返るだけでも、見逃されていた重要な要素が明らかになります。それは第3代、つまりアッバース朝のカリフ制です。アッバース朝カリフ制は、まだどのイスラム運動によっても模範として採用されていません。この点は特に奇妙です。というのも、アッバース朝カリフ制こそ、イスラム文明の最も輝かしい時代であり、最も調和の取れた繁栄の時代だったからです。
バグダッドを拠点とするアッバース朝(別名バグダッド・カリフ制)は、ペルシャ人とアラブ人、中央アジアと北アフリカ、メソポタミアとアナトリア、スンニ派とシーア派を統合しました。この時代には、イスラム法の解釈を発展させる全ての法学派が成立しました。芸術、科学、哲学、技術が栄え、スーフィズムやシーア派神秘主義の基本的な教義もこの時代に確立されました。アッバース朝の哲学者であるアル=キンディー、アル=ファラービー、イブン・シーナー(アヴィセンナ)、ジャービル・イブン・ハイヤーンは世界的に知られ、中世ヨーロッパでも熱心に研究され、その著作は細部まで注意深く解釈されました。
バグダッド・カリフ制はイスラム史の絶頂期であり、この時代のイスラム教徒の統一はその繁栄の頂点を象徴しています。宗教の単純化ではなく、その複雑化と深遠で洗練された哲学的解釈によって成し遂げられました。イスラム教は万人に開かれたものであり、特に知識人たちを魅了しました。彼らはコーラン、スンナ、そしてイスラム哲学者や神秘主義者の独創的な著作に込められた無限の意味に没頭しました。
アラブ文化はペルシャ文化と調和し、トルコ人、クルド人、ベルベル人など他の民族もその統一に寄与しました。ここで重要なのは、2024年11月11日にリヤドで開催されたアラブ・イスラム緊急首脳会議を通じて、アッバース朝カリフ制を連想させる要素が浮かび上がった点です。この会議にはイスラム世界の主要な国々と潮流が集結しました。
イスラム文明が多極化する世界の中で本格的な一極となるためには、統一が必要です。そして、その統一がどのような思想的基盤に基づくかが極めて重要です。見逃されていたバグダッド・カリフ制のモデルが、その答えを示唆しています。
バグダッド・カリフ制への回帰は、イラク問題の解決策にもなり得ます。現在のイラクは分裂の危機に瀕しており、アラブ人シーア派(多数派)、アラブ人スンニ派、クルド人という三極を統一する思想やイデオロギーは存在していません。しかし、アッバース朝カリフ制の象徴的な首都としてイラクが再び選ばれれば、イラクはアラビア、イラン、トルコ、マグリブ、中東、南アジアを繋ぐ神聖な中心地となり得ます。この場合、「スンニ派かシーア派か」という問題は取り除かれ、サラフィズムやワッハーブ主義は排他性を主張しない方向性として共存できるようになります。シーア派はイスラム世界との統一の夢を実現し、クルド人も植民地後の国境による分断から解放されるでしょう。トルコもまた、国家を超えた統合計画を実現し、影響力を拡大する機会を得るでしょう。さらに、イランとアラブ諸国のバランスも回復されるはずです。
このように、イスラム世界がバグダッド・カリフ制をモデルにした統合を進めれば、それは多極化する世界におけるイスラムの真の復興の瞬間となり得ます。そして、イラクは分裂した国家から新たな繁栄の地へと変貌するでしょう。
2024年11月11日にリヤドで起こった出来事は、歴史の転換点となる可能性があります。歴史家たちは、これを「多極化する世界におけるイスラム極の形成の始まり」と呼ぶかもしれません。この統一は、シオニスト・イスラエルや集団的西側という致命的な脅威に直面して実現しました。しかし、歴史的に見ても、共通の敵に直面した時こそ全ての力が結集し、歴史的な先例や伝説が蘇り、新たな意味を持つことが多いのです。
象徴的な意義は明らかですが、今回の歴史の精神的な流れと現実の状況がどのように展開するかを正確に知ることはできませんが、私たちは時代の兆候を正確に読み解く努力を怠るべきではないのです。
翻訳:林田一博