「ユーラシア主義と汎アフリカ主義:文明の挑戦と対応の共通性」
"ユーラシア主義者と汎アフリカ主義者は、違うように見えますが、その思想体系に於いて重要かつ、構造的な類似性が存在します。"
ユーラシア統合はロシアの重要な地政学的優先事項の一つであり、同様にアフリカ統合はアフリカ諸国の優先事項と言えます。これらの概念はそれぞれユーラシア主義と汎アフリカ主義という思想の流れの中で形成されたものであり、ユーラシア主義者と汎アフリカ主義者の間には表面上の違いが見られますが、これらの思想体系の間には重要な構造的な類似性が存在するのです。これは、アーノルド・トインビーの「挑戦と応答」の模式に従って整理が可能であり、本質的には「西洋化」「近代化」「歴史的記憶」そして「伝統に根差した未来像」といった問題に直面した非西洋文明が抱える類似の文明問題について、議論されています。
「西洋に対する挑戦・自立する文明への道」
ユーラシア主義者と汎アフリカ主義者は共に、西洋を熟知する知識人たちでした。それぞれが異なる事情により西洋に身を置くこととなり、彼らは西洋の普遍性を否定し、さらに非西洋と自身の地域の文明主権を選択したのです。
ユーラシア主義者、例えばN.S.トルベツコイのようなロシアの知識人たちは、1917年の革命以前にはリベラルまたはリベラル・ナショナリストの立場をとっていました。彼らが西洋へ亡命した後、彼らの世界観は急速に先鋭化し、スラブ主義の伝統を継続する強い信念を持つようになりましたが、彼らが西洋に対抗して立てたものはスラブ世界ではなく、発展の舞台としてのユーラシアでした。彼らはロシアの独自性と西洋や東洋の文化との違いを主張し、ユーラシア主義という思想を形成しました。ユーラシア主義とは、ユーラシア文明の独自性とユーラシアの地政学的空間(政治的および経済的)の統一の必要性を掛け合わせたものでした。
一方、最初の汎アフリカ主義者は、アフリカの西洋植民地支配の時代に西洋で学んだアフリカ人とアフリカ系アメリカ人の知識人たちであり、彼らの中には、古代の植民地前の国家伝統と直接的な血統を持つ現地の貴族もいました。例えば、ダホメー王国の貴族出身であり、パリの洗練された人物、トヴァル・ウエヌーは1924年に黒人保護世界連(LUDRN)を設立しました。
汎アフリカ主義における特定のリベラルな考えが直ちに無くなることはなかった一因として、事実上のアメリカの植民地であり、アメリカのアフリカ進出の足がかりとなっていたリベリアという存在があった為です。しかしながら、一般的な反植民地主義の議論は、ユーラシア主義者が掲げる立場とも一致していた事から、結果的に汎アフリカ主義者たちはやがてアフリカの独立と統一について語り始めるようになりました。この考え方は、シェイク・アンタ・ジョップやレオポール・センゴールといった著者たちの主要な思想となり、モディボ・ケイタ、セク・トゥーレ、クワメ・ンクルマ、トーマ・サンカラ、ムアンマル・ガダフィといった指導者たちの政治的プロジェクトの基礎を築いたのです。
「近代への問いかけ」への「回答」それは「伝統」である。
ロシアのユーラシア人達は、ロシア移民社会で最初に伝統主義の創始者、ルネ・ゲノンの作品に目を向け、再評価を試みた者たちでした。彼ら自身は、他の民族の伝統を敬意をもって扱いつつ、ロシアが自身の正教の伝統へと戻ることを主張していました。この考え方は、最も適切にアレクサンドル・ドゥーギンの新ユーラシア主義に引き継がれています。ドゥーギンは、初期のユーラシア人達が西洋に対して展開していた反対論を、現代と伝統という二つの概念が対立するパラダイムへと一歩進めました。
この見解は、伝統主義哲学に深く影響を受けた現代の汎アフリカ主義にも共有されています。ここで特に重要なのは、非営利組織「Urgences Panafricanistes」の代表、ケミ・セブの思想です。しかしながら、南アフリカ共和国の元大統領であるタボ・ムベキによって定義されたアフリカルネッサンスの思想にも、現代に対する批判的な視点が見受けられます。
「タボ・ムベキの作品で明らかにされたアフリカルネッサンスの特異性は、日常の実践(科学を含む)をアフリカの現実と哲学に基づいて根付かせることの重要性を強調している点にある。彼は、アフリカが依然として奴隷状態にあるという事実を引き合いに出し、現代が全てのアフリカ人の福祉に対して機能していないと認識している...。資本主義も、マルクス主義も、それらの派生形態も、アフリカに自由や統一をもたらしてはいない。アフリカルネッサンスへの参加を呼びかけることは、言語と哲学を通じてアフリカの復活を促すことへの呼びかけでもある」 - と、ジンバブエの研究者マーク・マリサとフィリッパ・ネンゲセは述べています。
ユーラシア主義の一部の流れや、汎アフリカ主義者たちは、長い間、文明の主権を求める道筋を近代のイデオロギー(自由主義、共産主義、ナショナリズム)への訴えに求めていました。しかし、彼らは結果として、近代とその全体的な政治パラダイムを拒絶する結論に至りました。
「初期の汎アフリカ主義者たちは、アフリカの未来は資本主義やキリスト教、あるいはマルクス主義の採用にあると信じていましたが、21世紀の初頭に至り、特にアフリカン・ルネッサンスへの呼びかけと共に、現代の手段や構造がアフリカ人の生活状況を根本的に改善することに失敗したという、暗黙のうちに、そして明らかに認識されるようになりました」と、アフリカの研究者たちは述べたのです。
「帝国からの挑戦・答えとしての大陸統合」
伝統の世界で最も高まる政治的組織形態は帝国、まさしく「王の中の王」でした。マリ帝国、ベニン、モノモタパ(現在のジンバブエ)といった古代の帝国体制は、アフリカ人たちの心に誇りを喚起し、汎アフリカ主義の炎を燃え上がらせました。西洋の近代帝国主義に対立する帝国意識と、現存する形状としての帝国、または政治的想像力を駆り立てる集団の記憶の対象としての帝国は、植民地主義に対抗する主権的イデオロギーの中心的資源であり、対抗の力を集める重要な要素でした。
例えば、マリ国家の設立者の一人、モディボ・ケイタは新しいポストコロニアル国家に古代帝国の名を冠することを次のように正当化しました。「マリという名は、西アフリカ全体に誇りをもたらし、力強さ、そして黒人が政治的、行政的、経済的、文化的に組織化する能力の象徴です。この名はすでに我々の心と魂に未来への大いなる希望、つまりアフリカ民族への期待を象徴する神秘的な印を残しています。」
過去の遺物というよりも政治の現実的な存在として存在していたアフリカの帝国、それはエチオピアであり、初期の汎アフリカ主義者たちを、植民地主義に対する抵抗の好例として啓発しました。しかし彼ら汎アフリカ主義者たちは、古代の帝国をそのまま復活させるのではなく、全アフリカの広大な地域を包括する新たな連合を、服従や隷属ではなく、平和と相互の親愛に基づいて構築することを志向しました。
その考えはユーラシア人の政治思想の形成にも見られ、彼らは過去の帝国のイメージを用いてその立場を形成していました。彼らは共有する歴史的な過去から着想を得て、祖先たちによる国家建設を誇りに思いつつ、古きロシア帝国の復活を願うのではなく、汎ユーラシアナショナリズムの原則に基づき、新たな国家統合の構築を支持しました。このユーラシア的な立場は、ロシアのプーチン大統領の言葉により示されています。彼はかつてのソ連について、「ソ連の崩壊を悲しまない者には心がなく、また、ソ連をそのままの形で復活させようと思っている者には理性がない」と述べました。
ユーラシア主義と汎アフリカ主義の間に存在する対称性は、両イデオロギーが協力と支持を共有する運命にあるというさらなる根拠を提供します。同じような挑戦に直面しているロシア人とアフリカ人は、西洋の支配を乗り越え、近代性を超越し、自らの過去を克服するという共通の道を辿っています。そしてそれらは伝統を基盤として新たな政治的形態を創造するものです。お互いの考えを深く理解し研究することにより、ユーラシア主義と汎アフリカ主義の議論は一層豊かになり、そしてこれら両方のイデオロギーを信奉する者たちの政治的想像力を刺激することが可能になるのです。
翻訳:林田一博