「モルドバとその歴史」

30.10.2024

モルダヴィアの歴史は、ゲト=ダキア(ルーマニア)の歴史と有機的に結びついていますが、いくつかの独自の特徴を持っています。当初、モルドバの地域には、ダキア人に近いものの異なる民族であるトラキア系のゲタエ人が住んでおり、ゲタエ人の居住地は大草原に隣接する形でトラキア世界の最東端を形成していました。おそらくより後の時代には、トラキア人はさらに東方にも広がっていったと考えられますが、モルドバにおいては彼らの東の境界が徐々に確定し、スキタイ人、サルマティア人、後にはゲルマン系のゴート人、フン族、アヴァール人、マジャール人、トルコ系の人々、モンゴル人といったツラン系の侵略が絶え間なく続きましたが、ゲタエ人はモルダヴィアに留まり続けました。

大ダキアの成立期においては、ゲタエ人とダキア人が接近し、ダキアの指導者はゲタエ人の王ブレビスタであったことが示されています。ストラボンによれば、ブレビスタの下でダキア人の統一はゲタエ人によって主導されたとされています。

モルダヴィアの地域はローマのダキア属州に含まれませんが、トラヤヌス帝はゲタエ人に対する遠征に成功し、ベッサラビア南部を征服するに至ります。
ここには 2世紀から4世紀にかけて、チェルニャホフ文化が広がりをみせましたが、フン族の侵入によって衰退し、チェルニャホフ文化の担い手はトラキア人だけでなく、ゲルマン系(ゴート人やゲピド人)、原スラヴ人(アンティ人)、サルマティア人、そしておそらくバルト人も含まれていたと考えられています[1]。フン族がヨーロッパに向かって進出する中で、これらの地域はフン族の影響圏に入り、その帝国の一部となりました。

5世紀から6世紀にかけて、古代スラヴ系民族であるスクラーヴェン族とアンテス族(アンテス族はスラヴ系とサルマティア系の混血だった可能性があります)がモルダヴィアの地に積極的に広がり、これらの地域は大スラヴィアの一部となりました。スラヴィアは東ヨーロッパ全域に広がり、彼らは次第にチェルニャホフ文化の担い手を同化しながら東はバルカン半島、さらにドナウ川地域にまで及んで、以前のトラキア文化圏を覆うようになりました[2]。6世紀には、ドナウ川下流域に定住していたスクラーヴェン族の指導者ラドゴスト(またはアルダガスト)がビザンチウムへの襲撃を行ったことが記録されており、彼はカルパティア山脈とドニエストル川支流のセレト川との間を支配していたスクラーヴェン族の指導者ムソキウスとの同盟者でもありました。

また、この時代のこの地域では「スラヴの元主教」パラガステス(?–597年頃)の存在も言及されています。9世紀以降、これらの土地には東スラヴ系のティヴェル族が住んでいました。ティヴェル(Tiv(e)rъ)とはドニエストル川の古スラヴ語名であり、ギリシャ語ではΤύραςと呼びます。インド・ヨーロッパ語族のtur-(「回転する」、「速く流れる」)に由来しており、彼らの東には同じく東スラヴ系のウリチ族が定住していました。定住型の農耕民であるティヴェル族は、その西の境界に牧畜を営むワラキア人と接触していた事がわかっており、10世紀中頃には、キエフ・ルスの一部を構成しゲタイや他のトラキア系部族の残党を同化しながら、農耕文化が優勢な彼らの社会構造を取り込みました。

おそらくティヴェル族は、その後10世紀のペチェネグ人や11~12世紀のポロヴツ人といった東方からのステップ遊牧民の侵攻により、北方へと移動することになったのでしょう。

同時に10世紀になると、ブルガリアの影響力がバルカン半島で急拡大し、ドナウ川下流域と隣接地域が、ブルガリア王国の一部となりました。そのため東スラヴ系は、南スラヴ系の影響が加わる事により、スラヴ人の文化的連続地帯が形成されました。12世紀から13世紀にかけてモルダヴィアの北部地域と、時にはその全域がガリシア公国の支配下に置かれることもありました。また、同時期にはドニエストル川下流南方のスラヴ人やワラキア人の地域には、ブロドニク人[3]が定住していました彼らはアゾフ海からドニエプル川と、さらにはモルダヴィアに至る南方のキエフ・ルスの国境地帯に住んでいた混血の特殊な民族集団です。

またモンゴルの征服時は、ブロドニク人の領土およびカルパティア山脈とドニエストル川の間に位置する南東地域は、金帳汗国に組み込まれました。

12世紀以降、ルーマニア中部(カルパティア地方)からロマネスク語を話すワラキア人の二次的な拡散が始まり、それに伴ってティヴェル族の残存者や他のスラヴ人と一部のトルコ系住民[4]はローマ化され、モルダヴィア民族の基盤が形成されたのです。このように、かつてのトラキア系ゲタイは集中的なスラヴ化を受け(その際、ゲタイ語を失いました)、その後スラヴ系のティヴェル族自身が、カルパティア地方におけるローマ征服の時代から東方ラテン語を保持していたダキア人の子孫によって「ローマ化」しました。この過程は宗教的共通性(正教)と住民の主な職業の分布によって促進され、流入したワラキア人は主に牧畜業に従事し、地元のスラヴ人は農業に従事していました。

14世紀には、モルダヴィアの文化的・政治的中心地がカルパティア東部およびドニエストル川の右岸地域に移り、ここでルーマニア第三の政体であるモルダヴィア公国が形成されたのです。

「モルドバの誕生・ドラゴスからムシャトへ」

モルドバ公国の起源は、1345年にハンガリーがモンゴルに勝利した後に金帳汗国の勢力が弱まったことで始まり、プルート川以西の多くの領土がハンガリーの影響下に置かれた為「ハンガリーの辺境」として、ある程度の自治権が与えられました。この新たな政治体制の最初の統治者は、カルパティア高地のマラムレシュ・ワラキア人居住地域出身であるボグダンの息子の、ドラゴシュ・ヴォーダ(Dragoş Vodă)[5]です。この地域は11世紀以来ハンガリーの属領となり、後に直接的に統合されていました。ハンガリーとモルダヴィアの資料によれば、1352年(別の説では1345年または1359年)に、ハンガリー王ラヨシュ大王(1326~1382年)はドラゴシュ総督をこの地に派遣して新たな政治体制を築くことを命じた為、ドラゴシュ総督は軍勢を集めてモンゴル軍をドニエストル川の彼方に追いやって、ハンガリー人の支配下にあった既存の領土を大幅に拡大させました。彼が征服したモルダヴィア南部の土地は、後にベッサラビア(またはワラキアの建国者バサラブ1世にちなんでバサラビア)と呼ばれるようになり、この時期からワラキア人が集中的に住み始めたのです。

モルドバの建国伝説は、ドラゴシュが野生の雄牛(ジンブル)を狩ったという話に由来します[6]。その伝説には、ドラゴシュが忠犬モルダと共に負傷したバイソンを追い詰めると、バイソンは川に飛び込みました。追いすがる忠犬モルダも川に飛び込みましたが、川の流れに呑み込まれてしまったのです。ドラゴシュはこの忠実な犬に敬意を表して川と国を「モルダヴィア」と名付け、バイソンの頭をモルドヴァの紋章としました。ドラゴシュとその仲間がこの地を訪れた際、彼らはこの場所を気に入り、そこに定住することを決めました。狩りが行われた場所は「バイア」と名付けられ、モルダヴィアの最初の首都となりました。

ロヴィネスクによると、モルドヴァの伝説では白いバイソンがモルドヴァ人の祖先とされています。彼は聖なる山チャフルウに住んでいたとされます。白いバイソンの別の居場所は東カルパティア山脈の聖なるカリマン山であり、神の命令でフツヤン一族が守護していたとされています。その後、神聖なフツ族は人類の退廃に伴い、カリマン山の下に隠れざるを得なくなりました。ロヴィネスクは、白いバイソンを守るフツヤン族の姿を「ラーマン」—地下世界に住む祖先の霊—に重ね合わせています[7]。

ヴォイヴォダ・ドラゴシュは権力を息子サスに譲り、サスはさらに息子バルクに権力を譲りました。これによりドラゴシュ朝は終わり、モルダヴィアの支配はボグダン1世(1307年頃~1367年)に引き継がれました。

ボグダン1世の時代、モルダヴィアは独立公国となり、彼が政治的な意味でのモルダヴィア国家の創設者とされています。一方、ドラゴシュ・ヴォイヴォダ(およびワラキアの黒いヴォイヴォダ)は、神話的な存在であり、モルダヴィアの支配者の原型とされています。1365年にハンガリー王ラオイシュ1世は、モルダヴィアがハンガリーから独立する事を承認しました。ボグダン1世はハンガリーだけではなく、トランスニストリア領の喪失を受け入れない金帳汗国や、当時勢力を増していたポーランド王国の圧力に対しても、モルダヴィアの主権を守り抜きました。ボグダン1世は息子である-ラッコ(1345年頃~1375年)に王位を譲り、ラッコは一度カトリックに改宗しようとしましたが、民衆の圧力で正教に戻りました。

ラッコの後を継いだのはコスチャ(1328年頃~1387年頃)であり、彼はボグダン1世の娘ムシャタと結婚し、ムシャタ家という名で知られるようになりました。

「ラッコの後継者 - 息子たちの統治」

ピョートル1世ムシャト時代(1391年頃)のモルダヴィアは、地域の重要な政治勢力であり、ピョートル1世ムシャトはポーランド王ヤガイロの宗主権を認め、モルダヴィアをポーランド・リトアニア連合の影響下に組み入れました。ピョートル1世はヤガイロ家と婚姻関係を結びましたが、同時にモルダヴィアの正教会的要素を強調し、ガリチの大主教を通じてコンスタンティノープル総主教を迂回し、モルダヴィア正教会の長に任命したのです。この時期にモルダヴィアはモスクワ大公国とも接近することによって、この統治者の下でモルダヴィアの領土は拡大し、新たな都市や要塞が築かれ、正教会や大聖堂も建設されました。モルダヴィアの首都はスチャヴァに定まり、独自の貨幣の鋳造が始まりました。

ピョートル1世の後を継いだのは弟のローマン1世ムシャト(1400年頃)です。彼もポーランド・リトアニア連合の臣下として統治を始めましたが、その後ポドリアの公爵を支持する内部抗争に巻き込まれ、ポーランド軍によるモルダヴィア侵攻と彼の捕縛を招きました。彼は息子ステファン1世ムシャト(1364年頃~1399年頃)に王位を譲り、ステファン1世はポーランドに再び忠誠を誓って、かつてのようにヤガイロへの忠誠政策に戻りました。彼はポーランドの利益に完全に従うことを明言し、ハンガリーやワラキアを含むポーランドの敵に対抗することを約束しましたが、これがハンガリー軍の侵攻を招き、その結果ハンガリー軍はネアムツ要塞でモルダヴィア軍を打ち破りました。

次のモルダヴィアの統治者は、ローマン1世の息子アレクサンドル・ドブリ(1432年頃)でした。一説によれば、彼の即位にはワラキアの領主ミルチャ・スタリーの助けがあり、これによってモルダヴィアとワラキアの両国は同盟を結ぶことになりました。同時にアレクサンドル・ドブリはポーランドにも接近し、特にリトアニアの大公ヴィトフトやその後継者スヴィドリガイロと関係を深め、グルンヴァルトの戦いなど、ポーランド・リトアニアの軍事作戦に参加しました。

アレクサンドル・ドブリの治世下ではモルダヴィアがさらに強化され、1401年には、コンスタンティノープル総主教庁からモルダヴィア正教会独立を認めさせることに成功しました。

アレクサンドル・ドブリの死後、息子たちによる権力闘争が起こり、モルダヴィアは分裂し、北部(首都スチャヴァを擁するツァラ・デ・スス)はイリヤ1世(1447年頃)を領主と認め、南部(首都ヴァスルイを擁するツァラ・デ・ヨス)はステファン2世(1409年~1448年頃)を領主と認めました。この内紛でモルダヴィアは急激に弱体化し、一時的に東ヨーロッパに於いて独立した政治的役割を果たすことができませんでした。

また、モルダヴィアの歴史にはわずか数ヶ月間しか統治しなかったチュバール・ヴォダという、謎めいたヴォイヴォダの存在も記されています。
伝説の中で彼は「ネズミに食われた」と、されています。同様に、「ネズミに食われた」とされるポーランドのポッペル朝の王も思い出されます[8]。ヴァシレ・ロヴィネスクは、このキャラクターはモルダヴィアの民間伝承や文学で人気のある道化師の原型であり、トランシルヴァニア出身のハンガリー人将軍ではなく、「世界の王」という神聖な君主の思想を象徴する形而上学的なゲシュタルトであると考えられています[9][10]。ロヴィネスクにステファン3世に至るモルダヴィアの歴代統治者の中にチュバール・ヴォダが言及されているのは、彼には特別で神聖な使命が与えられていたことを示しているとされています。

「ステファン・チェルマーレ:スチャヴァ- 第三のローマ」

モルドバの分裂は、この国で最も強力で有名な支配者であるステファン3世(1429年~1504年、ルーマニア語ではȘtefan cel Mare)によって終結しました。ステファン3世はオスマン帝国をはじめ、ハンガリーやポーランドなどの地域覇権国に対してモルドバの主権を守り抜き、国家の統一を回復してモルドバを独立した東欧の大国へと変貌させたのです。さらにステファン3世はモスクワ大公国と同盟を結び、隣接するワラキアではヴラド3世を支援しました。つまりヴラド3世  -ドラキュラとは、ハンガリーとトルコからの独立を守るための共通の目的があったのです。さらにステファン3世は、ラドゥ3世とバサラブ旧王の親オスマン政策に対抗することに成功しました。

ステファン3世は優れた軍事戦略家であり、参加したほとんどの戦いで勝利を収めました。例えばバイの戦いではマーチャーシュ・コルヴィヌス率いるハンガリー軍を破り、モルドバの完全な独立を確立しました。彼はまた、オスマン帝国の軍隊に対していくつかの戦略的勝利を収めてモルドバが占領される事を防ぎ、特にヴァスルイの戦いでは数倍の兵力を持つスレイマン・パシャ(1467年~1547年)の大軍を打ち破って、ローマ教皇を含むキリスト教世界の賞賛を集めました。最終的にはトルコへの臣従を認めざるを得なくなりましたが、それはあくまで形式的なものであり、実質的な従属ではありませんでした。

ステファン3世の治世の終わりには、初期ムシャト朝と同様にポーランド・リトアニアがモルドバへの影響力を強化しようとする動きが見られました。1497年、モルドバ軍はコズミンの森の戦いでポーランド軍を破りました。

ステファン3世は国家の中央集権化を強化し、農民に対して兵役の権利など一定の権利と自由を与えるとともに、貴族の権限を制限するいくつかの重要な政治改革を実施し、彼の治世では多くの要塞が建設され、チェタッチャ・アルバエ港も整備されました。

ステファン3世はモルドバ正教会の強化にも尽力し、教会や修道院の建設を進めました。彼の治世中にビザンティン帝国が崩壊し、カテーコン(神聖なる秩序を守る者)としての使命がモルドバに移るという問題が生じました。ヴラド3世ドラキュラのワラキアとともに、モルドバもまたこの使命の継承者としての役割を担うことになりました。ステファン3世は「聖ステファン」とも呼ばれ、その個性と政策はこの流れの中で理解されるべきです。

ビザンティン帝国がオスマン帝国に占領された後、正教会と独立を維持した国々は、ワラキア、モルドバ、そして崩壊しつつあった金帳汗国から解放されつつあったモスクワ・ロシアでした。もう一つの正教国家であるグルジアもカテーコン的機能を担う可能性がありましたが、グレゴリウス8世(1417年~1476年)の治世中に内部の危機と分裂の始まりを迎えた為にカテーコン的遺産の継承は、特にモスクワで鮮明に表現されました(「モスクワ - 第三のローマ」説)。しかし、ヴラド3世ドラキュラのワラキアやステファン3世のモルドバにもビザンティン遺産の影響を見出すことができます。ステファン3世が軍事的勝利を得るたび、モルドバの正教徒たちはこれを歴史的かつ終末論的な使命の証と考えました。したがって、ワラキアのタルゴヴィシュテと同様に、「スチャヴァ - 第三のローマ」説をある程度の象徴性をもって語ることができます。モルドバはトルコに対して独立を守り、主権を確立し、カトリックのハンガリー人やポーランド人に対して正教の信仰を維持することができたため、帝国の機能を正教的な解釈に基づいて継承する独自の立場を持つのです。

「ステファン・チェルマーレのその後」

モルドバと隣接するワラキアは、ブルガリア人やセルビア人といった南スラブ民族とは異なり、オスマン帝国に完全に服従することはなく、内政においてかなりの独立性を保ち続けました。またモルドバ人は正教徒のアイデンティティ、修道院の伝統と教会スラヴ語の典礼を守り通しました。

ステファン3世の死後は息子のボグダン3世(1479年~1517年)が、モルドバの支配者となり、父の政策を概ね継承する事によってポーランドとの緊張関係も引き継ぎ、いくつかの軍事衝突を招きました。またオスマン帝国への依存も続きましたが、これは定期的な貢納に限定されたものです。ワラキアとの対立が続き、ワラキアの支配者たちはモルドバを支配下に置くことを諦めず、自らに都合良いモルドバ王位要求者を支援しました。

ボグダン3世の息子ステファン4世(シュテファニツェ)(1506年~1527年)も父と同様に支配しましたが、彼の治世中にはモルドバとワラキアの間で複数の戦闘が行われ、その後にステファン3世の庶子ペトル・ラレシュ(1487年頃~1546年)が2度にわたりモルドバの王位に就きました。ペトル・ラレシュの治世下に、オスマン帝国のスレイマン大帝(1494年~1566年)がモルドバに侵攻し、首都スチャヴァを占領してモルドバに対する影響力を大きく強化しました。当初オスマン帝国はモルドバに自らの傀儡を置きましたが、ペトル・ラレシュは王位を取り戻し、ポルタ(オスマン帝国政府)の圧力をある程度和らげることに成功しました。

ペトル・ラレシュは息子のイリアシュ・ラレシュ(1531年~1562年)を人質としてイスタンブールに送り、イリアシュが次のモルドバの支配者となりました。イリアシュはイスラム教の環境で育ったため、オスマン帝国に忠実に従い、生涯の終わりにイスラム教に改宗して、モルドバの統治権を兄弟のステファン4世・ラレシュ(?~1552年)に譲りました。ステファン4世・ラレシュは、彼の政策に不満を抱いたボヤール(貴族)たちの陰謀によって殺害され、その後ボヤールの一族であるアレクサンドル3世・レプシュニャヌ(?~1568年)がモルドバの支配者となりました。アレクサンドル3世の統治は安定せず失脚し、その後オスマン帝国の助けを借りてようやく王位に返り咲きました。アレクサンドル3世は1564年にモルドバの首都をスチャヴァからヤシに移し、以後モルドバの支配者たちはヤシの聖ニコラス教会で戴冠されることとなりました。

この時期に再びポーランドの影響力が強まり、特にアレクサンドル3世の息子ボグダン4世(1555年~1574年)の治世において顕著でした。

しかし、モルドバ人、ワラキア人、トランシルヴァニア人は、トルコに対する反乱を諦めず、アレクサンドル3世の庶子アロン・ティラン(?~1597年)の治世では、モルドバはワラキアと反オスマン同盟を結ぶに至ります。1594年には新たな首都ヤシとブカレストで反乱が発生し、アロン・ティラン自身はオスマン帝国に多額の資金を支払って政権を握りましたが、イギリス大使の支援を受けていたため反オスマン連合に参加しても信頼されず、最終的にトランシルヴァニア人とハンガリー人によって打倒されました。

ワラキアの支配者であるバサラブ家の勇者ミハイは、トランシルヴァニア、ワラキア、モルドバの3つのルーマニア公国を一時的に統一しました。その間、モルドバではポーランドの支持を受けたエレミア・モギラ(1555年~1606年)が統治し、ミハイの反トルコ政策を妨げました。ミハイはエレミアを退位させましたが、彼の残した守備隊はポーランドの侵攻に対抗できず、再びエレミアの支配が復活してしまうのでした。

17世紀初頭ではワラキアの支配者ラドゥ・ミフニャ(1586年~1626年)が2度にわたってモルドバの王位を得て、ギリシャ文化の要素を導入し始めました。
アレクサンドル3世・レプシュニャヌの孫であるアレクサンドル・イリアシュ(1635年~1675年)の治世中、ギリシャ人の影響はさらに強まり、アレクサンドル・イリアシュが有力貴族に対して厳しい弾圧を行って、それが彼の失脚につながり、その結果アルバニア出身のアローマニア人ヴァシレ・ルプ(1595年~1661年)がモルドバの支配者となり、ギリシャ風の文化とビザンチンの要素をモルドバ社会に導入しました。特に正教会と教育機関の発展を奨励し、コンスタンティノープル、エルサレム、アレクサンドリアの総主教座や聖山に多額の寄付を行いました。1642年にはヤシで正教会会議が開かれ、キエフ大主教ペトロ・モヒラ(1596年~1647年)が作成した文書が採択され、正教会がユニア派とは異なる独自の教派であることが確認されたのです。この時期にモルドバでは書籍の印刷が始まり、歴史書や正教会の典礼書などが出版されました。

ヴァシレ・ルプはヘトマン国家と同盟を結び、娘をボフダン・フメリニツキーの息子と結婚させるなど、コサックとの友好関係を築きました。トランシルヴァニアの支配者ギョルギ・ラコツィ1世の支援を受けてワラキアの支配者マテイ・バサラブの打倒を試みましたが、失敗に終わりました。最終的にヴァシレ・ルプはボヤールによって失脚し、コサックやオスマン帝国の支援を得て王位復帰を試みましたが成功しませんでした。

ルプの治世にはモルドバの著名な歴史家で年代記作者の、ミロン・コスティン(1633年~1691年)が哲学や歴史に関する著作を残しました。彼はオスマン帝国との戦いを支持し、主な同盟国としてカトリックのポーランドを見なしていました。この志は後に息子のニコラエ・コスティン(1660年頃~1712年)によって受け継がれました。

「カンテミール使節団:ロシア哲学の原点で」

17世紀末、コンスタンティン・カンテミル(1612–1693)がモルドヴァの領主となりました。彼はおそらく、クリミア・ハーン国の貴族の家系に由来するトルコ系のルーツを持ち、名前の「カンテミル」は「ハン・テミル」に由来するとされています。カンテミルはモルドバの領主として、息子をイスタンブールに人質として送り、伝統的な政策を踏襲しましたが、キリスト教諸国とトルコ帝国との間の対立を利用し、どちらか一方を支持しつつも、形式的にはオスマン帝国の従属下にあり続けるという二重政策を展開しました。

モルドヴァ史上最も重要な人物とされるのは、コンスタンティンの息子、ディミトリ・カンテミル(1673–1723)です。ディミトリはイスタンブールで人質となり、ファナリオット(ギリシャ系貴族)の環境で高度な哲学教育を受けました。彼はモルドヴァ人による最初の哲学的著作を数多く執筆しており、『メタフィジカ』(形而上学)、『象徴史』(象形文字史学)、『ディヴァン』(対談)、『意識について』などがあります。また、モルドヴァの歴史の体系的な再構築にも取り組みました。

ディミトリ・カンテミルは、オランダの錬金術師ヴァン・ヘルモント(1580–1644)の思想に強い影響を受け、彼の著作を解説も加えて翻訳しました。これらはルーマニア史における最初の哲学的テキストとされます。ヴァン・ヘルモントの宇宙論は、ヘルメス主義の「ガス」という概念に基づいており、霊的世界と物理的宇宙の間に、非創造的であると同時に創造された中間的次元が存在するとしています。カンテミルはこの非創造的次元(ヴァン・ヘルモントの「ガス」)を正教会のイシハズム(沈黙の修行)の伝統における非創造的なタボルの光に関連付けて解釈しており、このような考え方は後にロシア宗教哲学の中心的なテーマとなってロシアのソフィオロジー(知恵論)の構造を決定づけました。そのため、ディミトリ・カンテミルはロシアのロゴス(理法)形成の初期における先駆者の一人と見なされます。

またディミトリ・カンテミルは、オスマン帝国の歴史とイスラム教についての包括的な記述を行った最初期のキリスト教作家でもあります。彼のイスラム教に関する著作は、スーフィズムやイスラム終末論に関する重要な情報を含んでおり、これらが西欧で知られるようになるのはさらに1世紀も後のことです。

彼は政治的にはロシアとピョートル大帝(1672–1725)への忠誠を選び、1711年にはオスマン帝国に対抗するための同盟条約を締結し、ロシアへの忠誠を誓いました。これがロシア・トルコ戦争を引き起こし、プルート川での戦いではロシアが敗北を喫します。ディミトリはロシアに逃れた後宮廷で高い地位に就き、晩年まで影響力と名声を誇りました。

ディミトリ・カンテミルはモルドヴァ最初の哲学者であり、活発な政治家であり、親ロシア的な地政学の基盤を築いた人物でもあります。彼の息子アンティオヒ・カンテミル(1708–1744)も、著名な詩人、外交官、そしてモルドヴァの領主として知られています。彼はイデア、概念、物質、自然などの哲学的な用語をロシア語に導入し、ロシア哲学の発展に貢献しました。

アンティオヒ・カンテミルは専制政治の熱心な支持者であり、貴族の特権に反対しました。彼は女帝アンナ・イオアンノヴナ(1693–1740)に対し、初期の秘密会議の要求(「コンディション」)を覆す嘆願書を提出し、政府の寡頭支配的な性格を修正することに成功しました。

この時期のモルドヴァ史において重要な役割を果たしたのは、歴史家であり軍人でもあったイオン・ネクルチェ(1672–1745)です。彼はディミトリ・カンテミルの同志であり、ロシアとの連携を推進しました。ネクルチェは正教と独立を軸としたモルドバのアイデンティティを体系的に構築する取り組みを行い、英雄的な行為を讃え、アイデンティティを放棄した人々を非難する『モルドバ領主の年代記』を編纂しました。ロシアとの同盟は単なる戦略的な選択ではなく、モルドバがその歴史的使命を果たすための、必要条件であると考えられました。

「ファナリオと近代化」

モルダヴィアの王位を継いだのは、貴族であり有力なファナリオ家の出身であるニコラエ・マヴロカルダト(1670~1730)でした。彼はモルダヴィア王家と遠縁の関係にあり、マヴロカルダトの統治下でモルダヴィアにおけるファナリオ家の時代が始まりました。彼とともに、イスタンブールからイアシに多くのギリシャ貴族が移り、モルダヴィアにおけるギリシャの影響がさらに強まりました。マヴロカルダトは啓蒙思想の著者に感銘を受けており、これにより西欧の科学的見解がモルダヴィア社会に広まりました。そのためギリシャの影響と同時に、近代の思想もモルダヴィアに浸透することとなりました。

もう一人のモルダヴィアの支配者であったグリゴレ2世ギカ(1690~1752)もギリシャ人でした。彼は4度にわたりモルダヴィア王位に就きましたが、ポルトとキリスト教諸国の間でバランスを取る伝統的な政策を行いながらも、ディミトリ・カンテミルとは異なり、明確にロシア側に立つことはありませんでした。
また、モルダヴィアに侵攻したハプスブルク軍を撃退することにも成功します。

それでもモルダヴィアに対するロシアの影響力は徐々に強まり、モルダヴィアは1774年のキュチュク・カイナルジ条約によってロシア帝国の保護下に置かれることになります。その後1806年から1812年にかけての露土戦争で、ロシアはモルダヴィア公国の東部、ドニエストル川とプルート川の間に位置するベッサラビアを占領し、これをロシア帝国に編入するに至り、その影響でテュルク系やイスラム系の住民の一部はオスマン帝国領に逃れ、残りはクリミアに移住させられ、キシナウ(現キシナウ市)がベッサラビアの主要都市となり、1917年にロシア帝国が崩壊するまでその支配下にありました。

19世紀にはワラキアと同様に、モルダヴィアにも革命的な共和主義思想が浸透し始め、メーソンのロッジや民主主義運動のネットワークが拡大しました。

1821年にテュドル・ヴラディミレスクによる反乱が、モルダヴィアとワラキアを席巻しヴラディミレスクの死後、アレクサンドル・イプシランティ率いる「エテリア」の支配が一時的に確立されましたが、続く1821年から1822年にかけてトルコ軍による占領が行われました。それ以降も西欧近代の民主主義思想や哲学がモルダヴィアで広まり続けましたが、ワラキアやトランシルヴァニアに比べてモルダヴィア社会は伝統的で保守的な性格を保ち、正教の古い形式や民俗的な伝統が継承されました。これには保守的な君主制と正教を重視するロシアの影響が強く働いていると言えます。

この時期の著名な統治者である中級貴族出身のイオニツァ・サンドゥ・ストゥルザ(1761~1842)は、トルコによる直接支配終了後にモルダヴィア公となり、ファナリオ時代の終わりを告げる新時代の指導者として登場しました。

彼はフランス革命の思想に影響を受けた急進派の支持を受け、ナショナリズムと西欧啓蒙主義的リベラル思想が結びついた改革を試みました。イオニツァ・ストゥルザは啓蒙主義的な政治改革の取り組み、修道院による土地所有の廃止し、共和主義的な原理を反映した憲法の起草を支持しましたが、モルダヴィアでは完全な共和主義体制の実現には至りませんでした。

イオニツァ・ストゥルザの後継者であるミハイル・ストゥルザ(1794~1884)は、1834年から1849年まで統治し、同様の改革政策を推進しました。

グリゴレ・アレクサンドル・ギカ(1804~1857)の治世下では、モルダヴィアの世俗化が進展し、カトリックやプロテスタントなどのキリスト教他宗派にも平等な権利が認められました。ギカはオーストリアやフランスなどの西欧列強との協力をモルダヴィア政策の柱としましたが、この方針が原因で政権から追放され、パリで自ら命を絶ちました。

オスマン帝国の属国としてのモルダヴィア最後の支配者は、アレクサンドル・イオアン・クーザです。モルダヴィアに進行した政治的変革の中で、彼は領主に選ばれましたが、ワラキアでも同様の変革が起きて、1859年にアレクサンドル・イオアン・クーザはワラキアの領主にも選出される事によって両国の統一が実現しました。この出来事は2000年ぶりにダキアが単一の指導者の下で再統一された歴史的な瞬間となり、トルコのスルタンも1861年にはこの統一を認めざるを得ませんでした。

アレクサンドル・イオアン・クーザをもって、ドラゴシュから始まるモルダヴィアの君主の系譜は終わりを告げ、統一された国家の次の支配者はカロル1世ホーエンツォレルンとなり、1918年にはモルダヴィアが共和国として宣言されるに至り、ルーマニアとの統合が決定されました。

「20世紀と21世紀のモルドバ」

第一次世界大戦後、ロシア帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国といった伝統的な帝国が崩壊した結果モルドバは二分され、西部地域(スチャヴァとイアシの両古都を含む)とベッサラビアはルーマニアに組み込まれ、一方でトランスニストリアとドニエストル川左岸地域はウクライナの一部としてモルドバ自治ソビエト共和国と宣言されました。

1940年、ソビエト連邦はベッサラビア(モルドバ東部)に軍を進め、ウクライナに属していたドニエストル川左岸地域と共にモルダビア・ソビエト社会主義共和国を形成すると共に、モスクワはウクライナに対し北ブコヴィナの領土を割譲することを義務付け、これによりベッサラビアの主要都市であるキシナウがモルドバ社会主義共和国の首都となりました。

第二次世界大戦中に於いてルーマニアはヒトラー政権の同盟国となり、モルドバの領土はドイツ軍に占領されましたが、1944年にソ連軍によって解放され、戦後にモルドバ社会主義共和国の戦前の領域はソ連に返還、ルーマニアにはソ連に友好的な共産主義政権が樹立されました。

モルドバはソ連の崩壊までその一部として存在しましたが、1991年に完全独立を宣言。ミルチャ・スネグルが新独立国家の初代大統領に選ばれましたが、この時キシナウ政府とトランスニストリア地域との間で対立が起こり、トランスニストリア当局は武力衝突の中で独立を宣言し、「トランスニストリア・モルドバ社会主義共和国」を名乗りイーゴリ・スミルノフが初代大統領に就任。トランスニストリアの住民構成はモルドバ人だけでなく、ロシア人やウクライナ人も多く含まれています。対立の背景には、キシナウの民族主義的な親ルーマニア的な政策があり、対照的にトランスニストリアの住民は親ロシア的な立場をとっていました。トランスニストリアは、1940年にベッサラビアがソ連に併合される前に存在していたモルドバ自治ソビエト共和国の後継国家であると主張しています。しかし、現在のモルドバ政府はトランスニストリアを実効支配しておらず、トランスニストリアも国際的には未承認のままとなっています。住民投票では一貫してロシアへの編入を支持する結果が出ていますが、その承認は得られていません。

モルドバとトランスニストリア間の武力衝突は最終的に均衡状態に達し、現在もその状況が続いています。

ミルチャ・スネグルの後、1997年にはリベラル派のペトル・ルチンスキが大統領に就任し、西欧との関係を強化。ロシアとの距離をさらに取ることを目指しましたが、彼の統治は生活水準の低下を招き、2001年にはモルドバ共産党の指導者ウラジーミル・ヴォロニンが大統領に就任し、キシナウをモスクワに近づける政策を掲げました。とはいえモルドバ社会は親ロシア派と親西欧派(親ルーマニア派)にほぼ均等に分裂しており、ヴォロニンの政権もロシアとの関係改善に大きな成果を上げることはできず、2009年から2010年にかけて政治的危機が発生し、複数の大統領代行が次々と就任する事態となりましたが、2012年にニコライ・ティモフティが大統領に就任しました。しかし彼の政治的・地政学的立場は不明確でした。

その後、モルドバは慢性的な危機に陥り、2016年から2020年のイゴール・ドドン大統領の時代に至っては、憲法裁判所の決定によって何度も職務停止処分を受けた後、その権限は議会議長のアンドリアン・カンドゥに引き継がれました。2020年12月にマイア・サンドゥが大統領に就任し、同国はユーロアトランティック統合を進める路線を採りました。モルドバは独立国家共同体(CIS)での活動を停止し、ブカレストやブリュッセルとの関係を強化するようになりました。2024年10月20日には、EU加盟を巡る国民投票と同時に新たな大統領選挙が行われる予定で、イラン・ショールは ロシアやユーラシア経済連合(EAEU)の利益を代表する選挙ブロック「勝利」を率いる有力な候補者とされています。サンドゥの政府は西側諸国の支援を受けて「勝利」ブロックを様々な方法で貶めようとしていますが、選挙と国民投票の結果がモルドバ国民の意思を示し、この対立における新たな方向性を決定することになるでしょう。

翻訳:林田一博
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*脚注

[1] В исторической литературе чаще всего Черняховская культура считается германской, хотя некоторые авторы (в частности, академик Б.А.Рыбаков) настаивают на преобладании в ней славян.

[2] Дугин А.Г. Ноомахия. Восточная Европа. Славянский Логос: балканская Навь и сарматский стиль.

[3] Бродников считают потомками тавроскифов, славян, валахов, готов, алан или тюркских народов (огузов, хазар и булгар). Возможно, они стали одной из этнических групп, на основе которой позднее сформировалось русское казачество.

[4] Прямыми потомками тюрок (огузов, печенегов и куман) являются молдавские гагаузы.

[5] Молдавские хроники утверждают, что Драгош умер в 1361 году, но современные историки полагают, что это произошло несколькими годами раньше.

[6] Элиаде указывает на связь этого сюжета об основании Молдавии с легендой о происхождении гунов и мадьяр от двух предков братьев Гунора и Магора, которые охотились в Меотийских болотах и там стали основателями 108 скифских племен.

[7] Lovinecsu V. Dacia Hiperboreană. P. 57.

[8] Дугин А.Г. Ноомахия. Восточная Европа. Славянский Логос: балканская Навь и сарматский стиль.

[9] Guénon R. Le Roi du Monde. P.: Éditions traditionnelles, 1950.

[10] Lovinescu V. Monarhul ascuns: permanență și ocultare. P. 76 – 172.

[11] Бабий А. И. Дмитрий Кантемир. М.: Мысль, 1983.

[12] Cantemir D. Metafizica. Bucureşti: Editura Ancora, 1928.

[13] Cantemir D. Istoria Ieroglifică. Bucureşti: Gramar, 2008.

[14] Cantemir D. Divanul / Cantemir D. Integrala manuscriselor. Vol. XXXIX - XL. Craiova: Editura Revers , 2013.

[15] Кантемир Д. Описание Молдавии. Кишинев: Картя молдовеняскэ, 1973.

[16] Cantemir D. Ioannis Baptistae Van Helmont Phisices universalis doctrina et christianae fidei congrua et  necessaria philosophia / Cantemir D. Integrala manuscriselor . Vol. X -- XI. Craiova: Editura Revers ,2013.

[17] Дугин А.Г. Ноомахия. Германский Логос. Человек Апофатический.

[18] Bădărău D. Filozofia lui Dimitrie Cantemir. Bucureşti: Editura Academirei Republicii Populare Române, 1964.

[19] Дугин А.Г. Ноомахия. Германский Логос. Человек Апофатический.

[20] Cantemir D. Sistemul sau intocmirea religiei muhammedane. Bucureşti: Editura Minerva, 1977. Русский перевод: Кантемир Д.К. Книга систима или Состояние мухаммеданския религии. СПб.: Типография царствующаго Санктъ-Питербурха, 1722.

[21] Дугин А.Г. Ноомахия. Восточная Европа. Славянский Логос: балканская Навь и сарматский стиль.

[22] Кантемир А. Д. Сочинения, письма и избранные переводы князя Антиоха Дмитриевича Кантемира. Т. 1-2. СПб.: И. И. Глазунов, 1867 -- 1868.

[23] Большинство этих терминов Антиох Кантемир ввел при переводе на русский язык книги французского астронома Бернара де Фонтенелля (1657 – 1757) «Разговоры о множественности миров» -- Fontenelle B. de. Entretiens sur la pluralité des mondes. Tour-d'Aigues: Aube, 2005.

[24] Neculcae I. Letopiseţul Ţării Moldovei. Bucureşti: Minerva, 1986; Idem. O samă de cuvinte. Letopiseţul Ţării Moldovei de la Dabija Vodă până la a doua domnie a lui Constantin Mavrocordat. Bucureşti: 100+1 Gramar, 1996; Idem. Cronica copiată de Ioasaf Luca. Chișinău: Ştiinţa, 1993.