「かわいそうな主体」(「貧しい主体」)

05.09.2024

ダリア・ドゥギナは、この問題に多くの関心を寄せていました。若い頃から、彼女はロシア文化や社会、そして人々の中で「弱い主体」が支配的であることに気づいていました。

彼女はこれを「かわいそうな主体」(「貧しい主体」)や「かわいそうな小さな主体」(「貧しい小さな主体」)と呼んでいました。正直なところ私たちは彼女をからかうこともありました。

その見解が正しいにもかかわらず、私たちはそれに過度にこだわる必要はないと考えていました。しかし、この考えはダリアを強く惹きつけ、彼女は何度もこの表現に立ち戻りました。彼女は女性らしい感性を用いて、この「かわいそうなロシアの主体」に対して、優しさや憐れみを感じていたのです。ダリアは他者の痛みに共感し、それを分かち合うことができました。たとえ近くに思いやりや同情に値する人がいないときでも、彼女は何とかしてそのような存在を見つけ出していました。

この「かわいそうな主体」という概念は、彼女の魂の深い感情を表すものでした。彼女が憐れんだのは、具体的な人間や生き物ではなく、むしろ概念や思想そのものでした。彼女の憐れみは、深く、精神的で、哲学的なものでした。

この概念は、多くの点で彼女の道を決定づけました。一方で彼女は「かわいそうな主体」の中に何か言葉で表現するのが難しい真実、隠された啓示、困難で悲劇的で痛みを伴う真実が潜んでいると感じていました。プーシキンの登場人物、特に『駅長』のサムソン・ヴィリンや『青銅の騎手』のエフゲニー、『外套』の狂気のアカキエーヴィッチ、『罪と罰』の酔っ払いのマルメラードフが、彼女にとっては非常に鮮明に感じられました。自分を守ることができない平凡で弱いロシア人たちの弱さの背後に、彼女は彼らの平凡さを超えた隠れた偉大さ、隠された真実への英雄的忠誠、そして世界に対する秘密のロシアからのメッセージを見抜いていたのです。

確かにロシア人は弱く、か弱く狂気じみていることもあるのですが、彼らの内には何か別のものがあり、それはロシアの波に耳を傾ける者には鋭く響き渡るのです。ダリアはこの「かわいそうな主体」を愛していました。なぜならば、無尽蔵の憐れみ深い優しさや無限の慈愛、犠牲をいとわない純粋に女性的な威厳、そして他の性別には近づきがたい崇高さにおいて、女性だけがこのような主体を愛することができるからです。

同時に、ダリアは強く、堅固で、勇敢で、英雄的な主体を求める意志を持っていました。ロシアの弱さと貧しさが、彼女自身の力でそれを補い、取り戻そうという抑えがたい欲望を生み出していたのです。力強く、意志が強く、深く、活動的な主体は、弱さに対抗してではなく、むしろその弱さから生まれるべきだと彼女は考えていました。最も重要なのは、西洋の冷徹な知性主義のようにならないことです。彼らは同情や憐れみを知らず、弱さや貧しさに耳を傾けず、高慢で個人主義的です。これがロシアの強さではなく、ロシアの主体が築かれるべき姿ではありません。ロシアの主体は犠牲において強く、人民、国家、教会といった全体に奉仕することにおいて勇敢であり、深く賢明であるべきです。それは、見せびらかすためではなく、観照の高みで見た光を他の者に、洞窟の底に囚われた不幸な者たちに伝えるためです。強い主体、ロシアの英雄とは、何よりもまず生贄です。この犠牲者は自分の運命が悲劇的なものであること、歩む道が苦難に満ちたものであることを理解しつつも、意識的にその道を選び他の道を望むことはありません。

ダリアは意志と知性、そして深く堅固で力強く英雄的な主体性を育てました。これは彼女の意識的な選択でした。しかし、彼女が自らの中に蓄積し、育てたこの力は、元々彼女自身だけのためのものではありませんでした。ある種の驚くべき運命により、彼女は人民とロシアの理念のために犠牲となる運命にあることを知っていたのです。彼女の強力で力強い主体性は、弱さに身を捧げ、半ば生きた社会の弱い小さな主体たちを自らの炎で燃え上がらせ、それによって彼らが彼女の力で満たされ、それを自らのものとするよう意図されていました。

誰が、この炎によってプーシキンのザハロヴォ邸で行われた平和的な伝統祭典からの帰り道、敵に爆破された若い哲学者の車の炎になると想像できたでしょうか。このことを語ることさえ恐ろしいですが、彼女こそが常に成りたかった英雄の道を歩んでいたのです。

『終末論的楽観論』より

翻訳:林田一博