I第四の政治理論の構築に
リベラリズムを超えて
私は循環的発展の支持者であり、知は徐々に蓄積されてゆく ものだというフランシス•ベーコンの考えには賛成しない。だ がここでは、進歩主義的なテーマや思潮へのアプローチを、い かに発展させ修正するべきか提案したい。われわれは「保守主 義」という概念の内容について、これまでくりかえし説明しよ うとしてきた。〈第四の政治理論〉をめぐる会議や学術シンポ ジゥムをいくつも開催した。こうした努力の成果は雑誌【★! や学術論文集、著«、ィンターネット.サィト【*2】で発表さ れており、多かれ少なかれ一般読者の目に入っているだろう。 だからここではその先に進みたい。
〈第四の政治理論〉に関する議論の進展の具体例としてモス クヮ大学社会学部保守主義研究センター【★立とサンクトぺテ ルブルク大学哲学部のペテルブルク保守クラブ【★々〕の活動力 もたらした、めざましい成果を紹介しよぅ。ペテルブルクの(強 調しておこぅ)すばらしい出版社「アンフオラ」から刊行され た二冊の本、アラン.ド•ブノワ!:☆11の『アンチ•リベラリ ズム——第四の政治理論にむけて』у!と拙著『第四の政治 理論』〔*6〕である。この「サンクトぺテルブルク哲学の日」!;亡2〕でも登壇した 哲学者ブノヮの本は、現代の主要問題に関する哲学的.政治的 所見をまとめたもので、グローパル化、経済的.社会的危機、 ョーロッパ統合、政治.社会の新潮流、ョーロッバ.ロシア関係、 ヒユーマニズムなどが論じられている。これらの問題がみな、
世界を支配するリベラル.ィデオロギー(第一の、もっとも頑強 な〈政治理論〉)を批判する立場から検討されるのだ。コミュニ ズムの飧後もはや敵なしとなったリベラリズムは、現弋0 政治や社会状況、経^、文化、ィデォロギーの否定的側面を認 識しべつの選択肢を求める者たちにとって、なにょりも批判すべき対象となった。リベラリズムに代わるかつての選択肢コミュニズムとファシズム は、歴史上すでに打ち破られ放棄された。いずれもそれぞれに、無力さと貧弱さをさらけだし たのだ。それゆえリベラリズムに代わる選択肢は、べつの場所 で探すしかない。その領域が〈第四の政治理論〉の場と呼ばれ ている。まさに(「サンクトペテルブルク竹学の日」におけるこのセクションの〕テーマに宣言されているとおり、「保守主義未来かべつの選択肢か」が問われているのだ。べつの選択肢に ついて打剣に考え、それを未来のプロジヱクトに結びつけょぅ といぅのなら、なにに代わる選択肢が問題なのかをはっきりさ せねばならない。答えは問^だ。グロ—パルな言説を支配する リべ”リズムに代わる選択肢である。したがって、唯一意味の あるべつの選択肢は論理的に、アンチ.リベラリズムを目指さ ねばならなぃ。ブノヮの^:1^のタィトルはここから來てぃる。もちろん、その役割にふさわしいのは保守主義なのか、とい う叫姐はある。その答えの一端は、リベラリズムの進歩理論を 批判した^サンクトペテルブルク捋字の日」における〕ブノワの
講演で語られた。こうした哲学的アブローチによつて、保守主 義は進歩というものを相対化し、さらには全否定する世界観と して姿を現し、リベラリズムに代わるもつとも理にかなつた選 択肢となる。残る問題は、それが特にどのような保守主義なの かを煮詰めることだ。リベラルな保守主義ではリベラリズムの 代わりにならず、その派生物でしかないことは明らかである。 だから消去法によって、われわれの主張を明確にしておこう。 リベラリズムに代わる選択肢は、非リベラルなかたちの保守主 義に求められるべきだ。ブノヮは保守的見解の哲学者として存 名なわけで(ヨーロッバの「新冇與」の創始者に数ぇられることも ある)、これは当然のことではある。その見解の詳細について は先述の彼の本をみてほしい。ブノヮの本のタイトルについてもう一言いつておくと、ア ンチ.リベラリズムを1111指すまたべつの世界観のマニフェス 卜、イマニュエル鲁ゥォーラーステインの「アフター,リベラリズム」7乙を思い出す人も多いだろう。タイトルも批判対 象も似てはいるが、両者には本質的な逸いがある。ゥォーラー ステインはリベラリズムを左から、ネオ.マルクス主義の立場 から批判する。そしてマルクス主狡者のご多分にもれず、リベ ラリズム(ブルジョヮ民主主^、资本主狡)を、歴史の発展段階 において、七かル前の段階(たとぇば封^制や奴^制の段搜に 比べると1^泰しているが、そのあとにくるもの 社会主義や
3ミュニズム にほ劣るとみなす。「左から」の批判とはこういうものであり、未来の視点からの批判なのだ(ゥォーラー ステインの本のタイトル「アフタ—.リベラリズム」はその表れだ)。 これはマルクス主義の典型的特徴である。他方、ブノワにとつ ては、リベラリズムが歴史上先行したタイプの社会より優れて いるか、また、未来のコミュニズムがさらによいものなのかは 行明でない。よつて、タイトルは似ていても、著者たちの立ち 位^にははじめから根本的な違いがある。ウォ—ラーステイン は「左から」、ブノワは「右から」の批判なのだ。リベラリズムへの態度にもまた差異がある。ゥォIラーステ インにおいては、社会政治史.社会経済史の論理からいつて、 リべラリズムが終わることはあらかじめ決まつており、だから こそ安易に「アフター」を語ることができる。一方、ブノワに とつては問題は未決である。リベラリズムとほ閼わねばならな い、しかしこの逍義的にも歴史的にも正当な闘いの結果につい ては、いかなる自明の保証もない。いまここでリベラリズムに 抗うこと、その弱点を突くこと、べつの世界観を掘りあてるこ とは浓要だ——だが未来はわれわれ次第であり、さまざまな可 能性に!!かれ、まだ決まつていない。ウオーラーステインはマ ルクス主義者の例にもれず、多かれ少なかれ機械論者であり、 ブノワは(典の)保守主義者の例にもれず、有機体論者であり 全体論者である。
アラン.ド.ブノワの^念とその^眼に阌して般後に指摘し ておきたいのは、ヵール,シュミットのいう【第四の大地のノ モス」【女!、つまり政治学.「政治神学」と地政学や空間の新 しい政治的組織化との結びつきを、ブノワが意義づけているこ とである。
三つの政治理論の否定
拙著「第四の政治理論』において、私は過去の三つの主要な 〈政治理論〉——リベラリズム、マルクス主義(社会主義)、ファ シズム(国家社会主義)——を自分なりに概観し、その収支を総 決算したうえで、これら三つのイデオロギーを超える〈第四の 政治理論〉を構築するための地平を素描した。これは当然いか なる教条主義とも無縁の試みであり、問題の最終解決を提示す るょうなものではない。それでも、この問題に本格的に取り組 むためのきわめて具体的な地ならしはできた。ここでは拙著や ブノワの本の内容をくりかえすことはせず、このテーマを前進 させるためにいくつかの指摘をおこないたい。〈第四の政治理論〉とはなにか、否定的な意味ではいまや明ら かだろう。それはファシズムでもコミュニズムでもリベラリズ ムでもないものだ。そもそもこのょうな否定にすでに意味があ る。既存のイデオロギー的.政治的パラダイムを脱して、紋切
型の政治思想の愔性に打ち克とうという、われわれの決意がそ こにはこめられているのだ。それだけが、自由な精神と批判的 知性を刺激的に誘惑する。〈第四の政治理論〉は新しい地平の 佬兑である。哲学の新年とでもいえようか。わくわくする未 知への跳躍。「旧年」は三つの政治ィデオロギーの争い——何 厉万もの命を奪つた血の争い——をみた。リベラリズム批判は みなファシズム的かコミュニズム的であつた。これらの批判は過去のものとなつたが、いちばん古いィデオロギ リベラリズム はいまだ健在だ。リベラリズムは「旧年」の遗物であり、残余350:110であり、非在へとしかるべく送り出されず にいる曖味な過去であり、すでに過ぎ去つたものでありながら 完全に立ち去ろうとはしない。要するに、それは(ギリシャ神 話の拟合獣〕キマィラであり、「太陽を呑んだ^」であり、新年 の前に「雪娘をさらう怪物」〔々2である。ある意味でリベラ リズムは、過去にあつたことすべてを体現しているのだ。〈第 四の政治理論〉とは、突破口、すなわち新しい〈始まり〉の呼 び名である。ここまでの批判の妥当性を確認し、三つの〈政治理論〉(リ ベラリズム、コミュニズム、ファシズム)やその派生物のラデイ カルな‘1を強調したうえで、〈第四の政治理論〉の肯定的内 好について考えてみたい。われわれがそれを否定的に規定してきた>3と自降が特谭的であり、きちんと意義づけられねぼなら
ない命ファシズムやコミュニズム、リベラリズムと訣別すると096 いう考えは、きわめて刺激的でぁる。〈第四の政治理論〉の否 定的ブログラムはいう。「ファシズムにノー、コミュニズムに ン ノ—、リベラリズムにノー!」、「リべラリズムを通すな!」。『奴 トノ らを通すな!」(30で38;133〇というスローガンはかつてファ シズムに対してもいわれた(30 一一^一^突ス^^べルリンの壁も崩 壊した。コミュニズムを体現し、コミュニストと資本主義者ハリ ベラル)を分離していたその壁は灰塵となつた。コミュニスト もまた「通されなかつた」わけだ。あとはリベラルを『通さない』だけだ——「奴らも通すな!」。しかし「奴らを通さない1た めには、ベルリンの壁の残骸ではまったく力不足である。壁が あったときですら役立たなかったのだから。奴らは壁など越え て通ったのだ。第三帝国の残像はなおさら意味がない。その『成 仏できない死者たち」は、荒ぶるパンクな若者を興甯させたり、5\1愛好者の倒錯的な夢をかきたてたりするのがせいぜいだ。そういうわけで、〈第四の政治理論〉の虚無的段階から肯定 的段階へ移ろう。三つの〈政治理論〉をまるごと体系的に放棄 することで、それらをべつの角度から眺めることができる"三 つはそれぞれの論拠にもとづいて、一打したィデオロギー体系 としては否定される。しかし各々の構成要柰は——体系という ものはみなそうだが——その^釘物ではない。1こつのへ政治ィ デォロギー〉の独自性は、抟有の併界玫の体系、粗み合わせ、
記述の方法論、その全:^—その「解釈学的循環」の構造、原 现的エビステ—メ —にある。それらはひとまとまりの全体とし てのみ总味をもつのであり、要素に分解すると意義を失い非意 味化される。リベラリズムやマルクス主義(社会主義、コミュニ ズム)、ファシズム(阴家社会主義)のイデオロギーのあれこれ の^成要尜は、いまだリベラリズムでもマルクス主義でもファ シズムでもない。まつたくニユートラルとはいわないが、一貫 した厳密なイデオロギー的文脈を外れると、それらの要素はベ つの新しい意義を獲得し、あらわにしぅる。〈第四の政治理論〉 を描築する汽定的契機はこの原則にもとづく。三つの政治イデ オロギーをみなおし、因習にとらわれずに分析することで、新 しい现論の内容のヒントが得られるだろぅ。歴史の主体三つのイデォロギーはそれぞれ、歴史の主体を明確に規定し ている。リベラル,イデオロギーにおける歴史の主体は個人である。 個人は理性的で意志(道徳)を有する単位とみなされる。リベ ラリズムにとつて個人は所与であり目的だ。個人は所与ではあ るが、個人としてのアイデンテイテイをしばしば見出せないで いる。個人がおのれの個人性を見出す妨げとなるのが、さまざ
まな集団的アイデンテイテイ——部族的、^族的、01家的、宗教的、カースト的等々 である9リベラリズムは個人に対し、おのれ自身になるよう呼びかける。すなわち個人を抑えつけ外 側から規定する社会的同一化や依存から、すべて自由になるよ うにとじリべラリズムー英語の一一^^/ラテン語の一一一^妄に由来) の意味はここにある。あらゆる外的なものから『自由」たれ0フ テン語の一一一>2)と呼びかけるのだ。その際、リベラリズムの理 論家(とりわけ! 5 ,ミル)が強調するのが「〜からの自由| という、拘束や同一化、制限からの解放という否定的な内容の 自由である【女9。そうした解放がどんな目的をもつのかにつ いては、リベラルは語ろうとしない。なんらかの規範的目的を 主張してしまうと、個人とその自由をふたたび靭限することに なるからだ。それゆえリベラルは、社会が発展するための道徳 的命法とみなされる「〜からの自由」0一一与二^とバ〜への自由』^3^03^ この自由をいかに、なんのために用いるかの規定Iを厳密に区別する'^後者は歴史の主体(泡人)が自分で 見出せばよい。〈第二の政治理論〉において歴史の主体となるのは塔较である" 社会の階級的構造と、搾取階級と技搾取陪较との対立が、コミュ ニストが歴史のブロセスにみてとるドラマの中^だ"霑史は锫 級^争であり、政治はその表現である。^史の弁証法的主体た るブロレタリアは、ブルジョワの支配から自白になり,新しい
基盤による社会を建設する使命をもつ。ひとりひとりの個人は ここでは階級というまとまりの要素とみなされ、階級意識を高 めるなかで初めて社会的存在を得る。鉍後に〈第三の政治理論〉における主体となるのは、国家(イ タリア.ファシズムの場合)あるいは人種(ドイツの国家社会主義 の^合)である。ファシズムは全面的にへ—ゲル右派にもとづ く。へーゲルはブロシアの国家を歴史発展の頂点とみなし、主 体の挤神がそこで完成に達すると考えた。へーゲル主義者の ジョヴァンニ.ジェンテイーレ54〕は、この着想をファシス 卜.イタリアに適用した〔+10〕。ドイツの国家社会主義におい ては「アーリア人種」711〕が歴史の主体となり、「人間以下の 人嵇と永遠の闘争をくりひろげる」というレイシズムが唱えら れた。こうしたイデオロギーが招いたおぞましい結果はあまり に有名で、いまさら振りかえりはしないが、ナチスの犯罪的所 業のおおもとには歴史のブロセスにおける主体の選定があった のだ。歴史の主体の選定は、政治イデオロギー全体の原理的基盤で あり、その構造を規定する。だから〈第四の政治理論〉は、こ の問題に対してもつともラデイカルな行動をとり、歴史の主体 という役割を求めてきたこれらの構成物をすべて放棄するだろ う。歴史の主体は、個人でも、階級でも、国家でも、人種でも ない。これはハ第四の政治理論〉の人間学的.歴史的公理である。
歴史の主体がだれでないか、われわれは明らかにした。では098 だれでありぅるのだろぅか。われわれは問題の所在を整理し、しかるべきしかたで問題を ソ 設定した。主題は明確になつた。〈第四の政治理論〉における ぃノ 歴史の主体とはなにか、という問いである。現れたのはばつく りと開いた空虚だ。この空虚はきわめて興味深い意義をもつ。この空虚を深く追究すると、四つの仮説が提示される。それ らは矛盾するものではなく、まとめて検討することもできるが、
個別にみてもよい。
第一の板説。古典的な〈政治理論〉において歴史の主体の役 割を求めるものをすべて放棄したうえで、〈第四の政治理論〉 の主体は合成的なものになると想定される——個人、階級、国 家(人種、国民)、そのいずれ自体でもなく、それらの一定の組 み合わせとなるのだ。これは合成的主体の仮説である。第二の仮説は現象学にもとづくアブローチである。古典的ィ デオロギーにおける歴史の主体について知っていることは括弧 にくくって、フッサール的「エポケー」の操作を^こないわ れわれの前に開ける「生活世界」を経験的に描いてみよう。「形 而上学」や「神学」【+12】から解放されたへ政治的なもの)の 「生活世界」を。政治史を主体なしに考えられるだろうか? あるいは歴史そのものを?というのも、純梓に邱論的にいえ ぼ、政治は存在していてもデカルト竹^でいう6味での主体は
存在しなかった歴史的時代があるからだ。もちろん、こうした 「前主体的」政治史も、必要に応じてあと知患でイデオロギー 的に再解釈されてきたのだが、もはやイデオロギー(三つの〈政 治理論ごを信用しないわれわれとしてはゝそれらにもとづく 歴史の再構築を真に受けることはない。たとえば「アナール学派」(フヱルナン.ブローデルの方法)流 に政治史にアブローチするなら、たいへんポリフォニックな 風獄が見出され、主体に関する観念が広がることだろう。さら にはピータ!パーガー1>13】に倣って「脱世俗化」という展 望を得たり(歴史ではしばしば宗教組織が政治の主体となってきた)、 ヵール.シュミット〔女14】とともに政治決定に〈伝統〉が与え る影響を再検討したりもできる(「決断主義」をめぐるシュミッ 卜の教えに倣って)。進歩というドグマを放棄すれば、近代の以 前や外で活動する、きわめて広範囲の政治的アクターが視野に入ってくる これらは保守主義的アブローチといえょう。しかしわれわれは先に進み、将来、主体に代わってやってくるものを自由に探究してもょい ドゥルーズとガタリのリゾ丨-1や「器官なき身体」、「ミクロポリテイクス」をめぐるエキゾチッ クな仮説や、ボードリヤールやデリダ(テクスト、脱構築、「笼延」 等々)のいうポストヒストリーが、新しい(今度はまったく保守 的でない)可能性を開いてくれるだろう。それを無碍に拒絶す る——彼らがマルクス主義シンパで左翼だつたからというだけ
で いわれはまつたくない。第三の仮説。現象^的方法を推し迆めて一気に付少か先!一り し、〈第四の政治现論〉の主体として、ハィデガーの現存在を 考えることを提案したい7151。ハィデガーは现存在の灾び構 造をきわめて広範かつ詳細に説明した。それにもとづいて複雑 かつ一贳したモデルを構築し、たとえば新しい政治现解につな げることが可能である。ハィデガーが(特にその中期、一九三六丨 四五年に)現存在を中心とするみごとな竹学史を考えていたこ と、それにもとづき政治付^を!:顧し展開しうるということを 多くの研究者は見逃している。したがって現存在の仮説は、〈政 治理論〉に不可欠な歴史的展塑の指針となるような、深遠な座 標系をわれわれにもたらしてくれる。現存在を主体とすれば、 〈第四の政治理論〉は驻礎存在論的な構造となり、実存的人問 学のまわりに展開されることとなろう。このアブロ—チをどの ように具体化していくか、方向性を索描してみよう。,現存在と国家 ,現存在と社会階怊 ,現存在と権力(権力への总忐),存在と政治 ,政治的時間性の地平 ‘灾存的空問性と境界の現象字
,1?主と無,議ベ4、選^と「死に向かう存在」,市民権と、存在の守護者の役割 ,国民投票と志向性 ,人権における本来性と非本来性 ,人権の実存哲学 ,革命と逃げ去る神々 ,都市化と存在の家3然ながら、これは新しい政治学の関心範囲をざつと描いた にすぎない。第四の仮説は「想像力」〈コョ38一目一习)という概念に依拠する。 このテーマはジルべール.デュラン5昱の著作で詳述されて おり716〕、私はそのおもな理念を「想像力の社会学」という 本で解説した〔+17〕。構造としての想像的なものは、個人、集 団、階級、文化、人嵇(人沌が社会^的現象として実在するといえ るかは疑わしいが)、国家のいずれにも先行する。デュランはユ ングやパシュラールを败衍して、人問の内面にはじめから埋め 込まれた自饵的描造にもとづき、想像力が人問存在の内容をか たちづくるという。「想像力の社会学」に則れば、歴史上の政 治ブロセスを^後的に解釈することは转易であり、目新しい帰 結が浔られる。〈政治〉ハそれが役彩される梆成要素やある種の「法
的地位」なども含んで)の圈域において、想像力が独立したアク ターであると考えれば、きわめて魅力的でまつたく未開拓の方 向性が与えられるだろう。一九六八年の学生たちも『想像力に 自由を!」と求めたわけだが、彼らはよもや「想像力』が特殊 な政治主体たりうるとは思つていなかつたはずだ。彼らは個人 (リべラリズム、たとえ―-1左派」であれ)と階級(マルクス主義、た とえ秸神分析によつて大幅に洱解釈されたものであれ)という^に はまつていた。〈第四の政治理論〉の主体を求めるならば、われわれは新し い「解釈学的循環」へと果敢に入り込まなければならない。そ の循環の全体をなすのが〈第四の政治理論〉だが、これは当然、 いまだ十分には記述も定義もされていない。一方、その循環の 部分をなすのは主体であり、これまた仮説的.予備的にのみ設 定されている。しかし、曖昧な全体から曖昧な部分へ移り、そ してまた曖味な全体へ戻るということをくりかえすうちに、な にが問題になつているのか、よりはつきりとした輪郭が徐々に 明らかとなつてくる。驻本的確実性を否定すること(個人主義 にもとづくリベラリズム、階級にもとづくマルクス主孩、闻家\人秈 にもとづくファシズム/ナチズムといつた、古びた解釈学的術拟の否 定)から始まるこのブ0セスは、遅かれ早かれ、完全に埒定し うる構造を明らかにすることだろう。この梅、造がさらに明確に なるのは、あからさまな不条埋やネ©へ解決不;F能な)、梓较的
データとの不一致に、〔古い〕解釈学が突きあたるときである。 すなわち、いまはまだ、古びたィデオロギIを破壊するという ^命的使命と墘新的忾観のエネルギーに隠れてはっきりはしな いのだが、ある時点から、〈第四の政治理論〉の構築は完全に 科学的で合理的な性格をもつものになる。〈第四の政治现論〉の「解釈学的循環」は、「第四の大地のノ モス」【+18】のうちに位眩づけられることで、その内容がより 詳細に具体化される。それはまた、地政学が孕む巨大な認識論 的ポテンシャルを開示しもするだろう。地政学は、きわめて実 践的.応用的な課題に取り組むだけでなく、近代を支配した 歴史的思考が失効したポストモダン状況において、空間によっ て考えることへとおおいにいざなうのだ。地政学の哲学的.社 会学的ポテンシャルについて、私は幾度となく著作に書いてき た【女19】。空問性は現存在のもっとも重要な実存のひとつをな すものであり、その点で、「新しい大地のノモス」を引きあい に出すことは、〈第四の政治理論〉の主体をめぐる第三仮説と 完全に合致する。レイシズムの拒否それでは、〈第四の政治理論〉の内容を定式化するという課 題に、べつの側面からアブローチしてみよう。三つの古典的モ
デルから、なにをこの新しい砘論にもちこむことができるか検討したい。だが、三つの古びたイデオロギーからなにかを借用するには、 それをあらかじめ無害化すべく、そのイデオロギー固苻の『解 釈学的循環」から分離して、脱文脈化しておかねばならない。 なにが借用可能かを考える前に、絶対に捨て去らねばならない ものを、簡単に指摘しておくべきだろう。ファシズムと国家社会主義から始めるとすれば、ここで絶対 に拒否しなければならないものは、あらゆるかたちのレイシズ ムである。歴史的にも、地政学的にも、理論的にも、哲学的に も、あらゆる面において、国家社会主義を破綻に導いたのがレ イシズムなのだ。歴史的にだけでなく、哲学的にも。ある人種 がべつの人種より生来的‘客観的に優越しているという信念に、 レイシズムはもとづいている。国家社会主義の諸側面のなかで、 ほかならぬレイシズムこそが、無数の苦しみを生み出し、ド イツと枢軸諸国を崩壊させ、〈第三の道〉のイデオロギ—的構 想をご破算にした元凶である。人種理論にもとづいて、エトノ ス【士と全体(ユダヤ人、ロマ人、スラヴ人)を人棟的指標にし たがい撲滅するという犯罪的行為がなされたIナチズムが今 日もかきたてる怒りとショツクはなによりそのためである。付 け加えると、ヒトラーの反ユダヤ主義と、スラヴ人は「人問以下」 であり植民地化しなければならないという教説によって、ドイ
ツは対ソ戦に路み切つたのであり《そのためにゎれゎれは何?|万 もの人命を锚托にした)、その結果、ドイツ人自身が長きにわた り(永^にではないとすればだが)政治的自山と政治史への参加 権を失ぅことになつた(いまや彼らに残されているのは経済と、せ いぜいエコロジ—だけだ)。〈策三の道〉の支持者たちは、イデオ ロギー的に311放^となり周鉍者となつた。レイシズムのせいで理論的にも突践的にも 、国家社会主義とファシズムのほかのすべての面までが犯罪化され、その政治的世界観は罵倒 と侮^の対象と化した。ヒトラーのレイシズムは、しかし、さまざまなレイシズムの 一沌にすぎない——それはもつとも明確かつあからさまで、生 物学的なレイシズムであり、それゆえにもつとも嫌悪を呼び起 こす。だがレイシズムにはほかのかたちもある——一^化的なも の(文化には^級なものと低級なものがあると主張する)、文明的な もの(文明化された^族と未開の^族を区別する)、技術的なもの (技術的発诚を社会の価値を測るおもな尺度とみなす)、社会的なも の(ブロテスタントの沪定説のょぅに、^める^は^しい者ょり茜良 で灯潔なのだとセ張する/経济的なもの签人類を物苡的豊かさ にしたがつて^列化する)、進化論的なもの(人問社会は生物学的 苑展の結來であり、沌の進化の^本的ブロセス——生存競争、自然淘 汰など——はいまも続いているという公理を揭げる)。欧米社会はこうしたレイシズムに根本から侵されており、あ
らゆる努力にもかかわらず、いまだにそれを駆除しえていな い。この現象の忌まわしさを自覚して、西側の人々はレイシズ ムをタブー化しょうとするのだが、それはふたたび魔女狩りと 化してしまう——新たな下層民が、しばしばなんの根拠もなく 「ファシズム」の罪を若せられるのだ。政治的正しさとその規 準が、全体主義的ディシプリンと化し、純粋にレイシズム的な 政治的排除をおこなうのである。たとえばフランスで制度化さ れた左派リベラル的な反レイシズムは、次第にそれ自体が【人 種的憎悪」を拡散する中心となってしまう。今日フランスでは、 アフリカ系住民が「ファシズム」の罪を着せられる場合すらあ る。著名な黑人コメディアンのデュドネ.ムパラ.ムパラに対 する猛烈な中傷キャンべーンはその一例だ。彼の芝居は、反レ イシスト935-1€-F3^1^や505-?03^.5ョ6など)を含む現代フラン スのエスタブリッシュメントについて、そのいやらしい面を嘲 笑ってみせた。それにょってなにが起こったかというと、アフ リカ系のコメディアンであるムパラ.ムパラが、「茶色」と力 テゴライズされた、つまり「ファシズム」や「レイシズム」で あると糾弾されたのだ。最新のレイシズムは、ファッションだったり、モ—ドだった り、最新の情報トレンドだったりする。指^となるのはファッ ションモデルやデザイナー、洒落たパーティーの参加^、最ぎ 型の携带窀話やノ1-^パソコンの所打^:である。フアッシヨン,
コードに合うか合わないかが、社会的莲別や文化的アパルトへ イトの大衆的戦略の褪本になっている。今日では、これは経済 的毋闪とれ接結びついてはおらず、次第に独立した社会学的特 徴を帘びてきている。ファッションの独战という幻影が、新世 代のレイシズムとなるのだ。進少というイデオロギー岛体が、その構造上レイシズム的で ある。現在は過去よりよくて価値があるという主張や、未来は 現在よりさらによくなるだろうという信念は、過去や現在に対 する萣別であり、過去に生きた人々を貶め、先行世代の名誉と ^厳を傷つけるものだ。いわば「死者の人権」の侵害である。 多くの文化において、死者は大きな社会学的役割を担っている。 その窓味では死者は生きていて、現世におり、その存在に参加 している。あらゆる古代の文化と文明ではそうだつた。そして 今日でも、地球上の数十億の住民がそう信じている。中国文明 の摇礎には死者崇拝があり、死者は生者と同様に敬われていて、 死者の地位は社会的に商く、生者を超えるほどだ。進歩という イデオロギーは、過去の世代に対する精神的ジェノサイドであ り、正與正銘のレイシズムである。近代化という理念も、それ が灼己!:II的化した場合には、同じように疑わしい。やはりレイ シズムの明らかな徴候がたやすくみてとれる。明白にレイシズム的なのが、一元的グローパリゼーシヨンの 理念である。沔側、とりわけアメリカの社会が、おのれの歴
史と価値観を普遍的法則とみなして、それらのローカルで具 体的歴史をもつ価侦観I厌主118、市埸、縝会趴、資本主 義、個人主義、人権、無限の技術発^Iにもとづきグローパ ル社会を人工的に組織しようとすることに、二兀的グローパリ ゼーシヨンの甚礎がある。それらの価倘観はローカルなものだ が、グローパリゼーシヨンはそれを当然で锊遍的なものとして、 全人類に押しつけようとする。これが暗に意味するのは、ほか のあらゆる民族の価値観は未熟で未発達であり、西側を模範と して近代化.標準化されるべきだということだ。したがつてグ ローパリゼーシヨンとは、西ヨーロッバ、より正確にはアング ロサクソンのエスノセントリズムがグローパルに展開されたも のであり、すなわちレイシズム.イデオロギIのまつたき現れ なのである。〈第四の政治理論〉は——その本質的特徴として——かい阶る かたち、あらゆる種類のレイシズムを拒否する。民族的、宗教的、 社会的、技術的、経済的、文化的といつた指標によって、さま ざまな社会を規範的にヒエラルキー化することを拒否する。異 なる社会を比較することはできるが、そのうちのあるものがベ つのものより客観的に優れているとはいえない。そのような評 価はつねに主観的であり、主観的評価を理論に高めようとする 試みはすべてレイシズムである。そんな試みは非科学的で非人 問的だ。社会のあいだの違いは、あるものがべつのものより優
越していることを決して怠味しない。これは〈第四の政治理論〉 の公埋でありその中心である。反レイシズムは国家社会主義(す なわち〈第三の政治押-論〉)を^擊するが、階級憎悪をともなう コミュニズムや、進歩主義をともなうリベラリズムにも問接的 にかかわる。進歩主義には、経済的、技術的、文化的なレイシ ズムがつきものである。〈第四の政治理論〉は、一元的世界で はなく多元的な世界を求める。普遍性ではなく多極性を求める。 アラン.ド.ブノワが「アンチ.リベラリズム」でみごとに強 調したように。このように、国家社会主義に固有の生物学的なものをはじめ、 あらゆるかたちと桢類のレイシズムを拒絶する、という签本方 針を明確にしたうえでようやく、〈第四の政治理論〉が国家社 会主^から借用しうるものを示すことができる。レイシズムを 含意するあらゆるものをきつばりはねつけると、国家社会主義 イデオロギーの解釈学的循環は本苡的に破壊され、その内容は 無畨化し、そのまとまりと越盤は崩れ去る。レイシズムのない 国家社会主義は、もはや国家社会主義ではないI理論的にも 実践的にも。こうして無害化.無閑化したうえで、いまや恐れ ることなくその客観的分析へと移り、〈第四の政治理論〉に組 み込みうる理念を探すことができる。
エトノス
そのよぅなものとして指摘できるのが、エトノスへのけ;!:的態度、あるいはエトノス核(エトノスの梆造のぅちに形成され,岛度に^^化された社会形他を含む、そのあらゆる段階にわたつて^ 固に保たれる存在一への打定的態度である口このテ—マは、^ 守革命の竹^の^流派(たとえば0.シュミットの『^族描】押^ や六,メラー.ファン,デン,ブルックなど)やドイツの^^:社 会学派(评 ,ミユ— ルマン、只.トゥルンヴァルトなど)に深くか かわつている。エトノスは文化的现象であり、,!?;1,,:,3仰,^似, 経済活動をともにする共:!:体であり、「包枳風以」(し.グミリョ フーのぅちに溶け込んだ“機的卞物でありゝ娇姻閱係のさまざ まなモデルを惝築する繊細なシステムであり、煳叫の|1|:界との 問係を調幣するつねに独,:::の媒体であり、「生活1*1:界」(フッサー ル)の母型であり、あらゆる「,|:^ゲーム」(ヴィトゲンシュタ イン)の源來であるIそれは〈第四の政治邵論〉にとってゼ 高の価傾なのだ。もちろん、;一:家社においてもファシズ ムにおいても、エトノスは閲心の中心とはならなかつた。だが リべラリズムは、あらゆるかたちの^11|的アイデンティティか らの解放を呼びかけるイデオロギーであり、エトノスやエトノ ス核とはそもそも両立しえない。それはエトノスを^^化的に伐
滅しようとする、体系的,理論的で技術的な表現である。マルクス主義イデオロギーもまた、エトノスにはあまり関心 を向けない。階級社会ではエトノスは乘り越えられており、ブ ルジョワ的なものや、ましてプロレタリア的なもののうちには、 エトノスの影もかたちもないというのだ。「プロレタリア.イ ンターナショナリズム」という原則の絶対化はその帰結である。 唯一、エトノスにいくらかでも関心を払ったのが、政治的メイ ンストリームのなかでは興端的で周緑的な、「第三の道」の諸 潮流だった。とはいえナチスの正統において、民族社会学のテー マの有機的発展は、レイシズムのドグマにより塞ぎとめられて しまつた。ともあれ、エトノスとエトノス核(评.ミユールマン)は、十 分な根拠をもって、〈第四の政治理論〉における主体の候補と みなすことができる。その際に3|ねて注意しておきたいのは、 われわれがエトノスを複数形で考えており、エトノス問にいか なるヒエラルキー的体系も設けるつもりはないということだ。 エトノスは多様だが、その各々のうちにおいては普遍的である。 エトノスは生きており成長していくが、その生、その成長は、 いかなる舉一の枠組にも収まらない。エトノスは才—プンであ りながらつねに独自である。エトノスはたがいに混ざりあって はまた分離するが、いかなるエトノスもそれ自体で善であった り惡であつたりはしない——その評価基準もエトノスが構築す
るのであり、それぞれ独,:::のものである。ここからたくさんの:^結が^かれるだろう。とりわけ、【政 治」という観念そのものが相対化^1能になる。『政沿』という 観念は、都市とポリスを規範的なものとみなすことから始まっ たのであり、したがって、口,しを紺織する^:!:体(あるいは社 会)という都市型モデルにもとづいている。それに代わる一般 的枠組として、只.トゥルンヴァルトが「0付;一:家」720〕と 呼んだものを考えることができる——调跗の拟境と^和したエ トノスの自然な生きかたから、政治に対するべつの拟点がもた らされるのだ。つまり、都市(㈤家にはその梆边が役影されている) ではなく農村と地方の立埸から。古典的政治卞では煳鉍的だが、 〈第四の政治理論〉では中心となるものの立場から。しかしこ れは、エトノスを歴史の主体と認めたときに開かれる、さまざ まな可能性の一例にすぎない。だがこれだけでも、もっとも^ 本的な政治概念がいかに深刻な変化をこうむり、既成のドグマ がいかに根本的にみなおされることになるかがわかるだろう0
神話としてのマルクス主義
今度は〈第二の政治理論〉、コミュニズムからなにをとりい れられるかだ。だがそれに先立って,その「解釈学的炳舄一を 陂唆するために捨て去るべきものを考えておこう。コミュニズ
ムヵら応/11するわけにいかないのは、第一に、史的唯物論と単 線的な進步史観である。前述したように、進歩という里念こは レイシズムの要尜が潜んでいる。その要索がとりわけ醜悪に透 けてみえるのが史的唯物論であり、未来を過去より上位におく ことで「祖先の人権」を侵害するだけでなく、生きた「人間社会」 (只.トゥルンヴァルト)を機械的システムと同一視する。それ は人問とも人類とも関わりなく、あらゆる物質に共通の単一法 則にしたがうのだ。唯物論、機械主義、経済決定論は、マルク ス卞:義のなかでもつとも忌まわしいポイントであり、それが現 灾化したのが、歴史上、マルクス主義が勝利した国々や社会に おいて、精神的.宗教的迫産が撲滅されたことだつた。過去に 対する商慢な侮蔑、粘神文化に関する俗流唯物論的な解釈、経 済中心主義、社会システムのなかで差異が拡大してゆくことへ の背定的態度、歴史における唯一の主体としての階級という理 今5——マルクス主義のこれらの商はすべて、〈第四の政治理論〉 では捨て去られる。だが、こうした要素がなくなつたら、マル クス主莪(あるいはより広義の社会主義)はもはやマルクス主義 ではない。独立したイデオロギーとしては無害化され、個々の 要素に分解し、まとまりをなさなくなるだろう。マルクス主義はリベラリズムを説明するのに有効である。資 本の矛盾を明らかにし、ブルジョワ的システムを批判し、搾取 と隸厲を【成長1【解放」と規定するブルジョワ民主主義の戦
略を暴き出すのだ。マルクス主義のこうした批判的ボテンシャ ルはきわめて有益でアクチュアルであり、〈第四の政治理論〉の武器庫に迎え入れるべきだろう。だがそのときマルクス主孩 は、あらゆる問題の広がりに対し合理的公理系をもつて答える ィデオロギーではなく、表現豊かな神話、あるいは機知に富む 社会学的方法とならねばならない。受け入れ可能なマルクス主 義とは、神話社会学的なマルクス主義である。神話としてのマルクス主義は、原始の楽園状況(--1洞窟のコ ミュニズム」〉が次第に失われていつた歴史を物語る(『分業の始 まりと原始社会の階榴化」)。その後、矛盾は拡大し、世界の終わ りにいたつては、〈労働〉と〈資本〉が見本のようにきれいに 対立することになる。〈資本〉——ブルジョワ、リベラル民主 主義Iは世界の惡、搾取、疎外、虚偽、暴力を体現する。〈労 働〉が具現するのは、「共同の幸福」をめぐる偉大な夢と古代 の記憶であり、少数の惡者がそれを掠めとつている(「剰余価 値」)ために、生のあらゆる問題が生じる。〈労働〉(プロレタリア) はこうした状況のパラドクスを認識し、おのれの主人に対して 蜂起し、新しい社会I地上の楽園、コミュニズムIを建設 するべきなのだ。ただしそれは、「自然で原始的なコミュニズム」 ではない。それは人工的かつ科ネ的であり、何百、何千年もの 揀外をとおして蓄祯された^典が、「コミューン」「共同体」に 寄与することになる。^が生のうちに突祝するのだ。
このような神話は、終末論的意識の構造に完全にあてはまる。 終末論的^識は、高度に細分化した宗教だけでなく、さまざま な桢族や民族の神話で大きな場所を占めている。この事実だけ みても、終末論的意識には真剣な注意を払う価値があるだろう。他方、社会学としてのマルクス主義は、リベラリズムがその 支配を確立し、おのれの「正しさ」を証明するために用いる疎 外や欺瞞のメカニズムを明らかにするうえで、きわめて有用で ある。もともと神話であるマルクス主義は、論争的アクティヴィ ズムにおいてはすばらしい武器となり、ブルジョワの「大きな 物語」を暴餺し、リベラルのパトスの説得力を失墜させる。こ うした目的——「アンチ.リベラリズム」——に、現代の新し い状況においてもマルクス主義は役立つのだ。なぜならわれわ れはいまだ資本主義という状況下にあり、それゆえ資本主義を マルクス主義的に批判し闘争することは、その闘争の古いかた ちがアクチユアリティを失つたいまでも変わらぬ課題だからで ある。マルクス主義によるその敵 とりわけブルジョワ の記述はしばしば正しい。しかし自分自身を意味づけようとすると 怪しくなる。第一の、もつとも目につく矛盾は、社会主義革命 はいかなる社会で勝利するはずかという、マルクスの予言の不 確かさである。産業発達が高度なレべルに達し、都市ブロレタ リアの比率の高いヨーロツバの工業国で、社会主義革命は起こ
るだろうとマルクスは^じていた。^栗|^|やアジア的生鹿様式 の国では、その後進^ゆえに^命は^みえない。しかし二〇世 紀に生じたのは、そんな予言とは正反対の唞態だつた。社会主 義革命と社会主義社会は、旧態依然の農村人口をもつ農業国で 起こり、先進的なョーロッパやアメリカではそのょうな事態は みられなかつた。しかし、社会主莪が勝利した国々でも、マル クス主義のドグマはその狨本前提をみなおそうとはしなかつた。 工業化以前の要素を考慮に入れて、神話の力を正当に評価しょうとはしなかつたのである。マルクス主義の自己反省は 西側でのそれもソ連でのそれも——、疑わしく的外れなものだつ た。リベラリズムを正しく批判しながらも、マルクス主義は自 分自身についてはまるきり理解できなかつた。それはマルクス 主義の運命にも表れている。勝利したところでは最終的に崩壊 し、勝利するはずだつたところでは資本主義に敗れ、ブ0レタ リアは中産階級に溶解し、消費社会のなかで四散して、期待と 予言は外れたのである。ついにはョーロッバの革命的コミュニ ストはプチブル的ピエロと化し、民主主義下で満腹し退屈した 公衆を楽しませるだけとなつた。マルクス主義を正しい角度からみることがマルクス主義自 体にはできないとしても、〈第四の政治理論〉には可能である。 アラン.ド.ブノワには「右からのまなざし」【+21;一という古 典的著作があり、きわめて多様な政治的論者(「右」も「左」も)
が「新右翼」の視点から読みなおされている。この本はョーロッ パの「新右翼」の出発点となった。「旧右篛」にとってはほと んどドグマであった理念が批判され、他方、コミュニストのァ ントニオ.グラムシのょぅな論者が、「右」の立場から「革命的」 かつ好意的に解釈される。同様のしかたでマルクスを読むこと「右から」、神話的古代とホーリズム的社会学の立場からこそ、いま求められているのではないか。
リベラリズムと自由の理念
最後に、リベラリズムからはなにをとりいれられるだろぅ? ここでも同様に、なにをとりいれるべきでないかから始めね ばならない。これについてはブノワの「アンチ.リベラリズム ——〈第四の政治理論〉にむけて』で明確かつ詳細に述べられ ており、私もつねに意識してそれを参照してきた。リベラリズ ムは〈第四の政治理論〉の主要な敵である。ほかならぬリベラ リズムに対抗して、〈第四の政治理論〉は構築されるのだ。だが、 ほかの〈政治理論〉と同じくリベラリズムにも、前要なことと 二義的なことがある。リベラリズムという全体は、個人という 部分に支えられている。この個人という部分が、全体だと受け とられているのだ。おそらくだからこそ、リベラリズムの解釈 学的游0は強固なのである。それはきわめて小さい軌道を描い
て、個人という主体のまわりをめぐっている。この锨似を破る ためには、個人に打^を加え、それを廃炎して、政治的閲心の 周縁へと放り出さねばならない。その#威についてはリベラリ ズムもよく自党しており、個人を^し、そのアイデンティティ をより一般的な文脈に接合しようとするイデオロギーや理論と は、社会的なものであれ、哲学的なものであれ、政治的なもの であれ、一贯して闘う。このリベラル付学の病2をめぐる祌経 症と恐怖は、ネオリベラリズムの古典であるヵール.ボパーの 「開かれた社会とその敵』【+22〕に明らかである"ボパーはファ シズムとコミュニズムを近いものとみなすのだが、それは二つ のイデオロギーがいずれも、個人を超個人的な一般性や統一性、 全体性へと統合するからであり、それをポパーは『全体主衣」 とレッテル貼りする。個人を政治的.社会的システムの本^的毁尜とみなすことを やめれば、われわれはリベラリズムと手を切ることができる。 たしかにそれはいうほど簡堺なことではない。しかしいまや、 〈第一の政治理論〉の弱点(強みでもあるが)がどこにあるかは はっきりしたりこの现論の魅力と欠点はともにゝ倘人に机接訴 えかけることに起因するのであり、個人がつねに以分^!身であ りつづけ、おのれの自俅した倘人性と唯!性、抒殊性、部分性 を保持するよう呼びかける。いずれにせよ、へ第四の政治^論〉は、ポパー的恐你炖(奴
と支持者たちはそのせいで冗談のような結論に^かれる——へーゲル は「ネガテイヴ.キヤンぺーン」だという頭の弱い批判や、プラトン やアリストテレスがファシストだといつた非難!)の解釈を生かし、 リベラリズムという敵がなにをもつとも恐れているかを理解し たうえで、次のような理念を提示することができる。人間のア イデンテイテイは、個人的なものを除けばすべて正しく正当で ある。人間は個人以外のあらゆるものでありうる。このような 公理を読んだり間いたりしたリベラルの様子を、じつくり見て みるとよい。さぞ印象的な光景だろう——あらゆる「寛容性」 は一瞬で吹き飛び、こんなことを口走る者にだけは「人権」は 適用されないのだ。こういつた話はエッセイ「最大限のヒユー マニズム」723】や著遨『政治の哲学」724〕で詳しく書いた。リベラリズムを克服し破壊しなければならない。個人をその 玉座から放り出さねばならない。だが、リベラリズムからなに かとりいれられるものなどあるのだろうか。仮にリベラリズム が打ち倒され、その軸を失つたとして?そう、あるのだ。自由の理念である。そこには「\への自由」 の理念も含まれる。ミルはそのリベラリズムのプログラムにお ぃて、そぅした褚極的自由を拒否し、「〜からの自由」に限定 したのだつた。あらゆる意味、あらゆる角度における自由に「賛 成』といわねばならない。〈第四の政治理論〉は絶対的自由の II論たるべきである。絶対的自由が絶対的必然と一致する、マ
ルクス主義のようであつてはならない一そうした一致により^:山 は骨抜きになつてしまう)。いいや、0山はいかなるものでもあ りうるし、いかなる一致からも不一致からも,门111で、いかなる 方向にも、いかなる目的にも,:!:けられてよい。,:::山は〈第四の 政治理論〉の至上の価個であり、その中心、その力勋とエネル ギーの核である。だがこの自由は、個人の白由ではなく人問の门中として思考 される。エトノス核の自由、現存在の自由、文化の〇由、社会 の自由、あらゆるかたちの主体性への自由として。ただし倘人 的主体は除かれる。ョーロッパの思想はそれとは逆方向に進み‘ 異なる帰結に至つた。「(個人としての)人間とは壁のない牢獄 である」(サルトル)7251。つまり個人の自由とは牢獄なのだ。 真の自由を手に入れるには、個人という限界を超えねばならな い。〈第四の政治理論〉はそれゆえ解放の理論なのであり、牢 獄の壁を越えて、開かれた世界へと向かう理論である。その世 界は個人的アイデンテイテイの権限が終わるときに始まる。自由はつねに混沌という、可能性に満ちたオーブンな場と結 びついている。個人性という狭苦しい枠に閉じ込められると、 自由の容1は微小になり、ついには虚構と化してしまう。個人 に自由が与えられるのは、自由を使いこなすことなど個人にはできないからである 212由は個人というシステムとその秩序に閉じ込められたままだ。ここにリべラリズムの3|面がある
その深奥において、リべラリズムは全体主1的であり、差 異を許容せず、大きな怠志の実現を許さない。リベラリズムが 仲良くする気のあるのは小さな人間たちだけだ。リベラリズム が保護するのは、人権というより小さな人権、「小人の権利」 である。そんな「小人」にはなんでもさせてやればいい。どの みちなにもできはしないのだから。しかし「小人」を超えたと ころ、「最小限のヒユーマニズム」の彼岸で、すべては始まる のだ——そこで初めて自由の地平が開ける。だがそこには大い なる危機、深刻な危険も孕まれている。個人性という限界を超 えた人問は、生に満ちた危険な混沌の力で柙しつぶされかねな い。そこで人問は秩序を打ち立てようとするだろう。人問にはその完全な権利がある 大きな人問(01030ョ3X1ョ05》)、真の人問、「時問的存在」(ハィデガー)の権利が。あらゆる秩序 と同様、この可能なる秩序、来るべき秩序は、個人的なかたち で具現するかもしれない。だがそれは個人性ではなく個人化な のだ。与えられた無怠味なもののまわりをむなしくめぐるので はなく、使命を果たし、不安と恍惚に満ちた窓志の地平を平定 するのだ。このような自由の拟い手となるのは现存在である。これまで のイデオロギーは——それぞれのしかたで——現存在をその 本質から疎外し、自由を挥つてあれやこれやの形式に閉じ込 め、その本来性を剝谗した。それらのイデオロギーは、現存在
を生気のない人形にとつてかえた——『世人01182;3一である。現存在0352.3の自由は、本来的でありうる可能性を実現する ことにあり、「そこ03」よりも「存在52.51を実現すること にある。「そこ-存在」は「そこ」と「存在」から溝成されて いる。「そこ」というのがどこのことか理解するためには、そ れを指し示す、基礎的で創設的な身振りがなされなければなら ない。だが、「そこ」に泉のごとく『存在1が噴き出すためには、 そのすベて、その「解釈学的循環」の全体が、完全な自由の場 にあらねばならない。自由の至高のかたちとは、存在すること の白由である。それゆえ〈第四の政治理論〉は基礎存在論でも あり、その中心には存在の真理に対する関心がある。自由なしにはいかなる者も存在させることはできない。最適 社会をつくりあげ、すべての者が正しく存在し、適切な模範に したがい行動するようにさせても、究極の成果が得られる保証 は決してない。究極の成果とは、人間が存在を選ぶ自由である。 もちろん人間は多くの場合、「非本来的な」現存在のありかた に流れ、ごまかしを求め、おしゃべり(0¢『0^)と自己パロディ に陥る。自由になつた現存在は、存在への道を選ばず、避難所 へとまつしぐらに逃げ込み、ふたたび世界をおのれの幻党と恐 怖、気遣いと志向性でいつばいにするかもしれない。現存在の 選択は〈第四の政治埋論^すら狃落させゝ自己パロディに变え てしまうかもしれない。それは賭けである。だが存在とは结け
なのだ。問題はだれがだれを阽けるかである。おまえが万人を 賭けるのか、万人のほぅがおまえを賭けるのか。だが、自由を 船やす^:だけが、本来的存在を選びとることができる——危険 が限りないときにのみ、胳け金は玟に大きなものになるだろぅ。ほかの〈政治理論〉とは違い、〈第四の政治理論〉は欺瞞も 慰撫も誘惑もすることがない。危険を冒して生きろ、なにかを 賭して思考しろ、外へと解き放て、内に回収できなくなつても かまうな、と呼びかけるのだ。〈第四の政治理論〉は存在の運
命を信頼し、運命を存在に委ねる。厳密に構築されたィデオロギーはすべてシミユラークルであ り、つねに非本来的で、すなわち不自由である。だから〈第四 の政治理論〉は、拙速に基本公理の集成たろぅとすべきではな い。おそらくはるかに重要なのは、なにかをいいのこしておく こと、期待と暗示、疑念と予感のぅちに残しておくことである。 〈第四の政治理論〉は完全に開かれているべきなのだ。❽
訳一乗松亨平